一週間後、オリヴィエとリュミエールは、例のバザーに来ていた。リュミエールは、イーゼルに一番の自信作を置いた後、敷物の上に、小さな絵を数枚並べた。そして、似顔絵5フランより……と書いた札を出した。
オリヴィエはその隣で折りたたみ式の簡易テーブルを置き、その上に刺繍したハンケチの類と上海から持参していた小間物を取り出して置いた。
「オリヴィエ、それまさか本当に売っちゃうんですか?」
リュミエールはテーブルの上の茶器やアクセサリーを見ながら言った。
「賑やかしだよ。売るつもりはないよ」
オリヴィエはウィンクしながらそう言うと、テキバキとそれらを飾り付けるように並べてゆく。半時間の後に、周りの出店とは異質な雰囲気のコーナーが、出来上がった。仕上げにオリヴィエは小さな看板をテーブルの前に立てかけた。
『上海帰りのオリヴィエの店』
それを見たリュミエールが吹き出した。
「上海帰り……って、違うでしょうに〜」
「いいのっ、見た目は仏蘭西人なんだから、上海帰りにした方がソレっぽい」
「看板からして偽りあり……ですか。まあ、貴方らしいって言っちゃそうかも知れません。好きにおやりなさい」
リュミエールは、苦笑しながら椅子に座り直し、スケッチをしながら客を待った。やがて、日曜学校の終わった教会から人々が出て来、広場にも人が多くなってきた。
若い娘がさっそくオリヴィエの店に目を留める。質素な出で立ちの彼女は、オリヴィエのアクセサリーをうっとりと眺めている。
「綺麗でしょう。それ上海のものなんだよ。翡翠だよ」
オリヴィエが声を掛けると娘は、残念そうにそれをテーブルの上に戻した。
「とっても買えるお値段じゃないわ」
「そうだねぇ、それはお高いからねぇ。けれど、貴女に見て貰えて良かった。綺麗だなって思って、手に取って貰えるとアクセサリーは嬉しいものなんだよ。ねぇ、こちらはいかが? ハンケチは仏蘭西のものだけど、刺繍はワタシがしたんだよ」
オリヴィエはカゴから何枚かのハンカチを取り出して娘の前に置いた。
「……可愛い。この模様は文字? 何て書いてあるの?」
「こっちは愛、これは夢、それは花……ああ、これはお嬢さんにはお勧めしないよ、えっとね、金って書いてあるんだけどねー、これは、おぢさん向け」
オリヴィエは、ひとつひとつの意味を説明する。娘は迷いながら、愛と刺繍されたものをその手に残した。
「ありがとう。貴女の想い人によろしく」
代金を受け取りながらオリヴィエはそう言った。娘が去って行った後も、ポツリ、ポツリとオリヴィエのハンカチは売れていく。
「オリヴィエ、売れ行き好評じゃないですか。ハンケチは、ほとんど売れてしまったでしょう?」
「そうだね、後、二枚。それから、風呂敷で作った巾着袋も売れたねぇ。こっちに来る時に下着を包んでた唐草模様の風呂敷が、あんなにトレビア〜ンと言われるとわ! 判らないねぇ、仏蘭西人のシュミって。リュミエールの方はどう?」
「ぜんぜん。チャイナドレスの婦人を描いたものが一枚売れましたけど」
リュミエールはそう答えたが、金額までは言わないでおいた。だが察しのいいオリヴィエは、リュミエールの上着のポケットに手を突っ込み、そこに入っていた紙幣を見た。
「リュミエールの絵、一枚の方が、ワタシのハンケチ十枚と巾着袋五枚よか高い……」
眉をヒクヒクとさせてオリヴィエは、自分の売り上げの入っている空き缶の中を覗き込む。
「私の場合は、何も売れない日もあるんですよ。オリヴィエこそ初めてのバザーで、それだけ売れれば大成功ですよ」
「うん、まあね。でも良かった、リュミエールの絵も売れて。今夜はごちそうだね」
「ええ」
笑い合う二人の店先に、夫婦らしき年配の者たちが立ち止まった。
「おっと。お客様だ。もう少し頑張って売らないと、夕飯にワインを付けられないからねっ」
オリヴィエは、リュミエールに素早くそう言うと、接客に戻った。夫人が夫に向かって、しきりに何かを訴えていた。
「ねえ、あなた。今度のティーパーティに、ぜひとも欲しいわ。何度もお呼びしたことのある皆さんだもの。珍しい違う茶器でおもてなししたいわ」
「ままごとのような小ささだな。中国の茶器なんかどうやって使うんだ? 茶葉はどうする?」
「いいのよ、別に。セイロンあたりのお茶やジュースに使っても。雰囲気よ、雰囲気」
婦人は、オリヴィエが賑やかし出していた茶器のセットが気に入ったらしい。上海では珍しくも何ともない素焼きに、龍が彫ってある茶色をした茶器であるが、ここは巴里である。
「君、これいくらかね?」
「申し訳ありません、これは売り物ではないのです」
オリヴィエは、首を振った。
「どうして? そこを何とか譲って頂戴よ」
夫人は引かない。
「マダム。これは傷も欠けもなく、上海から大切に届いたもの。運搬料だけでも大層かかっております。お品物代よりその方がお高いくらいで、値段は付けられません」
「いかほどなの?」
「400フランです」
オリヴィエは澄まして言った。そう言えば諦めると思ったのだった。400フランは、オリヴィエが、休みなしで一ヶ月間ギャルソンをして得られる額だった。裕福そうなこの夫婦にとっては、大した金額ではないだろうが、それでもこんな場所で、あっさりと散財してしまうには大金である。案の定、夫人が一瞬、固まったのがオリヴィエにも判った。
「は! 400だと? 馬鹿馬鹿しい。駆け引きする気にもならなんよ。君、もう少し考えて商売した方がいいんじゃないのかね」
夫の方が、バカにするように笑った。その言いように、カチンと来たオリヴィエの目が、座っていく。
「普通のお品なら、もっとお安いんですけれどもね……何せ……」
後ろの方をボソボソと誤魔化すようにオリヴィエは言った。
「名のある方の作なの?」
「ええ。上海は四川中路というアベニューを少し入ったところに名高いアンティークショップがありまして、そこの主が、特別にその筋の名人に委託して焼かせた限定品」
それは嘘ではなかった。焼き物工場から買い付けたあまり物の二束三文の茶器セットの箱に、著名な書家であるルヴァの銘を入れて『価値価格五割り増し!』にし、新節の祝いに、得意先に配った品物の残りである。
「セイント財閥はご存じで、ムシュー?」
「むろん知っている。知らんものなどおらんだろう。それがどうした?」
「セイントのジュリアス様は、プライベートでこの茶器と同じものをお使いです」
蓬莱国迎賓館のジュリアスは、本当に使っているかどうかは知らないが、『使わせて頂く』と言って受け取った事は事実であった。案の定、ジュリアスの名前が出ると夫人が身を乗り出した。
「セイント財閥の若き総帥ジュリアス様がお使いになっているものと同じだなんて! 素敵だわ。ねぇ、あなた」
夫人の方はすっかりその気になっているが、夫の方は小馬鹿にしたような態度でオリヴィエを見ていた。
「セイントのジュリアス氏が、君と知り合いだとは思えんがね? どうしてプライベートでお使いだと知っているんたね?」
「上海でちょっと知り合いましてね。パーティや競馬もご一緒したこともあるし、行きつけのカフェではジュリアス様のマイカップを使わせて頂いたりして……」
オリヴィエは、いかにも彼と友人だと言わんばかりの態度でそう言った。
「まあ、本当に上海帰りなのね。それにジュリアス様とご懇意だなんて」
夫人はオリヴィエの店先の看板を見て言った。
「ええ、マダム。上海には、東洋の芸術や文学を学びに行っておりました」
オリヴィエは、リュミエールがあきれ顔をしているのを無視して、しゃあしゃあとそう言った。
「もしかしてソルボンヌの学生さん?」
夫人の勝手な解釈に、曖昧に頷くオリヴィエだった。
「本当かどうか。君、向こうの言葉はできるのかね?」
紳士にそう言われて、オリヴィエは頷き、二人に向かって、上海語で話し始めた。韻を踏んだ流れるような美しい発音で……。それを聞いていたリュミエールは驚き、オリヴィエの服の裾を引っ張ったが、オリヴィエの方は、知らんふりである。
リュミエールの顔が真っ赤になるような事を、オリヴィエは極めて優雅に話している。訳して書けば、○○が××して、◎◎◎◎◎すると、もう△△△は、□□となり、彼はもう我慢できずに***は○○の@@@を……以下、略。
リュミエールは目眩さえ覚えながら、あたりに上海語の判る人間が誰もいない事を必死で祈っていた。
「美しい響きだわ……意味は判らないけれど」
「どういう意味なんだね?」
夫人と夫が口を揃えて言うと、オリヴィエは得意げになった。
「愛を語らう恋人たちの、ちょっとした漢詩ですよ」
オリヴィエはリュミエールを見ながら、ウィンクして言った。
「確かに愛を語らってはいますけれども……語りすぎです! よくもまあ、あんな事を大声で! わたくしは思わず……」
リュミエールは、夫婦に判らないように上海語でオリヴィエにそう言い咎めた。
「んふふふーー、思わず、何? 勃った?」
「オリヴィエ……あとで覚えてらっしゃい」
リュミエールは、オリヴィエを睨み付けると怖い顔をして、自分の売り物の前に戻った。
「こちらの画家さんも、上海に行ってらしたのね。お上手な中国語だこと。ねぇ、あなた、この茶器、なんとかして下さいましな」
夫人は、夫の腕に手をかけて言った。
「けれどお前、400だよ。……仕方ない。君、100にならんかね。それだって、随分な値段だと思うが」
「400のお品が100とはご冗談を。それにこれは本当は、売り物ではないのです。まあ400出しても欲しいと仰るならお譲りしても……と思ったまで。申し訳ありませんけれど」
オリヴィエは、冷たくそう言うと、それ以上はもう何も言わないとばかりに、ツンと澄ました顔をした。そして彼らの後から来た娘が、オリヴィエのハンケチを手に取ったのをこれ幸いと、彼女に向かって接客をし始めた。諦めきれない夫人と、機嫌を損ねた夫は、互いにブツブツと言い争ったその場を去っていった。
先ほどの事で、ソッポを向いていたリュミエールが再び、オリヴィエの近くに寄って来た。
「オリヴィエ、売らなかったのですね。貴方がジュリアス様の名前を出した時は、またてっきりハッタリで、ぼったくる気かと。それにしても、この二束三文の茶器を100フランでも買う気だったのに、よく売りませんでしたね」
「だって、これ売るとどうやってワタシたちお茶飲むのさ。それに聞いた? あの夫人、この茶器でジュースや紅茶を飲むって言ったんだよ。いくら高くてもそんな人に売りたくないね」
オリヴィエの言い様に、リュミエールは「さっきのことは、この売らなかった茶器に免じて許して差し上げます」と微笑んだ。
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