「お帰りー、食事、済んでる? まだならスープがあるけど」
「ありがとう。お客様とオーナーと一緒に済ませて来ました。オリヴィエ、夕方、店に寄ってくれたでしょう?」
「気づいてた? 接客中だったからそのまま帰ったんだ」
「チラリと見えたのですけれど、お客様との話の切りが付かなくて追いかけられませんでした。お得意様だったので中座もできず……」
「ううん、気にしないで」
 オリヴィエはそう言うと、まだ湿っている髪をかき上げて、リュミエールから スッ……と視線を外し、ソファに腰掛けた。リュミエールは上着を脱いだ後、ハンガーに掛けて丁寧に肩の形を整え始めた。 いつものように、『一張羅ですからね、大切にしないと』と言いつつ。
「ねぇ、オリヴィエ」
 オリヴィエに背を向けたままリュミエールが言った。
「ん?」
 オリヴィエは、新聞に目を通しながら返事をした。
「どうしました?」
 リュミエールは、今度はきちんとオリヴィエの方を向き、シャツのカウスを外しながら言った。
「やだねぇ」
 リュミエールにそう言われて、オリヴィエは目を細めて呟いた。
「何が、嫌、なんです?」
「なんで、どうしました? なんて言うのさ、千里眼みたいに」
「貴方だって同じような事、時々わたくしに言うじゃありませんか。判りますよ、何かちょっと……ね、様子が違うと」
「ふんっ。お見通しってワケかーー」

 オリヴィエは観念し、心の中にあるモヤモヤとしたものを、とりとめなくリュミエールに語った。リュミエールは黙って聞いている。
「判らないんだ、これからどうしたらいいのか。前に言ってたワタシの夢ね……」
「装飾品のお店のことですか?」
「うん。どこかのクチュリエールの下で修行をさせて貰うのが一番かな、と思うけど、新聞の求人欄で募集してるお針子とかは女性ばっかりで、男のワタシが雇って貰える保証はないし、かと言って、店の前に座り込んででもお願いするっていう情熱も今ひとつないんだ。リュミエールみたいに何が何でも画家に……っていう気持ちがなくて、ただなんとなく店が持てたらなぁ……程度の気持ちしかないような……」
「じゃあ、気持ちが定まってくるまで、今のままでいいじゃありませんか? あ、家賃の事なら気にしないでください。その分、食料品の買い出しやお掃除はオリヴィエの方が当番の回数、多いですし」
「うん、それはそれほど気にしてないんだけど。なんていうか、物珍しかった巴里にも慣れて、何か毎日がつまんなくなってきたんだよ……。もしかして、自分の店を持ちたいとかっていうのは、ただの口実でさ、ただ巴里に来たかっただけなのかなって。観光客みたいに……」
 オリヴィエは、街路樹の落ち葉を掃除していた時の事や、食事中に思っていた事をリュミエールに話す。
「オリヴィエ、もしや、ただのホームシックじゃありませんか?」
 リュミエールは、テーブルの上に頬杖をついているオリヴィエに言った。
「ホームシック? そりゃ上海は懐かしいけど……。ルヴァのまったりとした口調も聞きたいし、オスカーにも憎まれ口を叩きたいし、宵闇亭のマスターの地味な嫌みっぷりも、蓬莱国迎賓館のジュリアス様のツンと 澄ました横顔も、ゼフェルとランディの子犬がじゃれ合うみたいなバカ騒ぎも懐かしいし、あ〜、ビリヤード屋の美美どうしてるかな? それから裏の家の鶏とアヒル、もう食べられちゃったかなぁ。だんだん数が減っちゃってさ、ワタシがあっち出るとき、たった五羽さ」
 そして脳裏に、美楽園のカティスの姿がチラリと思い浮かんだ。だが、それを口には出さずにオリヴィエは、リュミエールを見た。

「ふふ、鶏まで懐かしいとは立派なホームシックじゃないですか。わたくしもそうでしたよ。最初は巴里に来たことが嬉しくて嬉しくて。けれど、ある日、ふっと心にすきま風が入り込んだようになって。上海が恋しくて、辛くて……そんな時に、オリヴィエ、貴方がふいにわたくしの目の前に現れたんです。今だから言いますけれど、アリオスに連れられて行ったカフェで、貴方の姿を見た時、そんなわたくしの気持ちは一掃され、貴方に救われました」
「それじゃワタシが来た甲斐もあったというもんだよねぇ」
 オリヴィエは、少しだけ顔を上げ、リュミエールに向かってウィンクした。
「貴方らしい楽しいことを考えましょう。ねぇ、オリヴィエ。わたくしが絵を売りに広場に出る時、同行しませんか?」
「テルテル広場に?」
「テルトル広場ですってば。あそこではなくて教会の近くの広場の方。ほら、貴方のベッドを調達した所。月一回バザーがあるんです。絵だけでなくいろんなものがあったでしょう」
「ああ、彼処か。うん、シロップ漬けを売ってるおばあちゃんとか、古い絵はがき売ってる人とかいたよね」
「そうそう。あそこで何かオリヴィエも売れば? そうですねぇ、何か中国的なもの……例えばハンケチにシノワズリな文様を刺繍したものとか。それだって、れっきとした小さなお店でしょう。もし売れて少しお金に余裕が出来たら気持ちも楽になりますしね」
 リュミエールがそういうと、俄にオリヴィエの表情が明るくなった。
「あ、それいいかも。文様もいいけど漢字なんかいいんじゃない? 夢とか愛とか福とか。カフェの客に、当て字だけど漢字で名前を書いてあげたらすっごく喜ばれたことあるんだ」
「漢字ですか。とてもいいと思います。ほら、水夢骨董堂の時も、ルヴァのお習字の書き損じをお菓子の箱に貼り付けただけのものなのに、結構高値で売れたことがあったでしょう! わたくしは一応、止めましたが……」
「うん。お土産にするんだって一ダースも買ってった仏蘭西人がいたよね。後でルヴァったら怒ってたけどさー」
「バザーで売れたお金を、貴方のお店開きの資金として貯めてもいいし、英吉利に旅行に出掛けたり、伊太利亜辺りもオリヴィエの好きそうなものがいっばいありそう。せっかく巴里にいるんですもの、ね。楽しいことはいっぱいあるでしょう」
「リュミエール……抱きついてもいい?」
 オリヴィエは嬉しそうに言った。
「嫌ですよ。誰も見てませんけど、ただでさえ、そういう仲と見られがちなんですから。オリヴィエはともかく、わたくしは困ります。巴里って上海より多い気がしますよ、ソッチ系の方……」
 リュミエールの眉間に皺が寄っている。
「ともかくって何だよ、ともかくって。人がせっかく感謝の気持ちをカラダで表現しようとしているのに」
 オリヴィエは、ふくれっ面をして言った。
「カラダで表して下さるのなら、わたくしの為にお風呂にお湯を張ってきて貰えますか? あ、残り湯は当然、明日、お洗濯に使って下さいね。後、それからお茶も欲しいです」
 オリヴィエを追い立てて、立ち上がらせた後のソファのスペースに身を沈めながら、リュミエールは言った。
「はいはい」
「はい、は一回だけ。二度言わなくてよろしい」
 知恵の木学園の園長の口調をまねてリュミエールは言う。
「やなヤツ!」
 キッと振り向いたオリヴィエの目元が笑っている。リュミエールはその表情に少し安堵し、シャツの襟元をゆるめてタイをしゅるり……と外した。

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