□1928年 巴里 モンマルトル
 
 カフェの前にある街路樹が色づいている。夕暮れになる頃には、道にせり出して置いてあるテーブルの周りには落ちた枯葉が溜まり、椅子を引くのにも難儀するほどになる。客が退けた合間をぬって、オリヴィエは手早くそれらを掃除する。
「仏蘭西租界を思い出すねぇ……ふう」
 落ち葉を掃き終えたオリヴィエは、マロニエの木を見上げて溜息をつく……。

 ここカフェ・セ・レレガンス・ドゥ・ロム・モデルンは、マルチル通りと灰色煙草横町とが交差する角にある。大層でおかしな長い名前なのは何か謂われがあるらしいが、誰もそう呼ぶ者はおらず、『角のカフェ』で通っていた。大通りから幾分離れた場所にある小さな店だが、常連客が 付いており、それなりに繁盛はしていた。 三十代後半の無口な主人と気合いの入った美人顔の連れ合いが厨房を仕切り、ギャルソンは全部で三人。交代制なので、随時いるのはそのうちの一人か二人だけである。そのギャルソンの一人が、オリヴィエであった。

 巴里についてすぐにオリヴィエは、クリシー大通りのピガール広場の近くにある大きなカフェのギャルソンになったが、リュミエールがそこの常連客を訳あって投げ飛ばしてしまい(水夢骨董堂細腕繁盛記3参照)そのとばっちりでクビになってしまったのだった。
 掃除道具を片づけたオリヴィエは、チラリと店の壁に掛かっている時計を見た。午後五時になろうとするところだった。オリヴィエは黒いエプロンを外した。
「よう、オリヴィエ。もうお帰りかい?」
 店の奥のカウンター席に座っていた老人が、そう声を掛けた。毎日三時に工場の仕事が終わったあと、オリヴィエの働くカフェに立ち寄ってから家路につくのが彼の習慣だった。家路……と行っても彼の部屋は、横町を入ったすぐそこなのだが。
「今日は早番だったんでね。もうお終いさ。じぃちゃんは今日、えらくゆっくりしてるぢゃないの。もう五時なんだよ」
 彼はいつも小一時間ほどここで時間を過ごし、四時には帰っていくのだ。
「この後、横丁の会合があるんじゃ」
「へぇ、町内会なんてあるんだ」
「あるともさ。会が出来たのは1898年のことじゃ。由緒あるこの横町の美化に努めるべく儂ら住人が決起したのさ」

 灰色煙草横町は、薄汚れた古い建物が並ぶ小さな路地で、由緒などどこをどう探してもなさそうな所である。本当はごく普通の通りの名前があるのだが、灰色煙草横町で知られている。
「美化に努める……って、努めてあれなの?」
 オリヴィエは笑いながら言った。
「何を言っとる。そもそもなんで、灰色煙草なんて名前で呼ばれてると思うんじゃ。ちょいと前まで、あの通りの真ん中に、煙草を紙に巻く煙草工場の下請け屋があっての。ちょこっと出るハンパ煙草を内緒で、安ぅ売ってたんじゃ。ところがこれが親工場にバレてのぅ。結局、揉めたあげく、この横丁を出るまでの間だけ、そのハンパ煙草を吸ってよしという事になったのさ。んなもんで、横丁を出る時には、ポイッと吸い殻を道に捨てなきゃなんねぇようになって、自然と石畳みも見えんほどの煙草の吸い殻だらけの路地になって行ったのさ。吸い殻煙草だらけの横丁……を、詩的に言い換えて灰色煙草横丁と言い出したのは、かの偉大なる詩人ルノワールとも言われておるのじゃ」
「ルノワールって画家だったような……」
「細かいことを言うな。ま、そういう芸術家さんが言い出した極めてロマンチックな呼び名ではあるが、それではイカンだろうと儂ら、掃除を当番制で決めてるんじゃ。今日はその当番を決める日でのぅ。さあ、お前さんこそ帰った、帰った」
 老人は、笑いながら答え、オリヴィエを追い払う仕草をした。
「じゃあね。マスター、 ミレーヌ、お疲れ様」
 オリヴィエは、厨房にいる店主夫婦に声を掛け、店の奥にある従業員用の部屋へと向かった。ギャルソンの制服を脱ぎ捨て、着替えを済ませると、勝手口から外に出た。

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