◎春の章◎
そして、夜の帳が降りる頃、南京路はもう一つの顔を顕わす。埃にまみれた昼間の雑踏とはまた別の。水夢骨董堂のある裏通りにまで表通りの喧噪が伝わってくる。
それは物乞いの饐えた臭いや車夫の巻き上げる埃や食べ物屋の様々な臭いと入り乱れて、華やかな中にも何かしらもの哀しいのだが、今のオリヴィエには、それが恋しく待ち遠しい。
リュミエールがお金を持って英吉利紳士の館から帰ってきたら久しぶりに街に繰り出して何か美味しい物を食べようと思っていたのだ。可愛い姑娘[クーニャン]をからかったり、気になる様子でチラチラこっちを見る貴族の金髪娘をじらしたり、その気のある紳士が声をかけてくるだろう。そしたらお茶だけ付き合って軽くあしらってやろう、男と寝るなんて真っ平だけどワタシの美しさを褒めてくれるのを聞くのは好きさ……、オリヴィエはそんな事を考えながらリュミエールの帰りを待っていた。「遅いっ遅いねぇ、あのバカ、本当にやられてんじゃないだろうねぇ」
オリヴィエはイライラしながら時計を見る。リュミエールが例の英吉利紳士の屋敷に向かってかれこれ五時間以上にもなる。
「まさかね。どーせ帰りに美術館で油売ってるんだ」
オリヴィエは自分にそう言い聞かせて、新聞を広げた。とその時、骨董堂の戸がギィと軋む音がした。
「ったく〜、どこで油売[ひっかか]って、あ、リュミエールっ、どうしたのっ」
新聞からヒョイと顔を出して怒鳴ろうとしたオリヴィエは、帰って来たリュミエールの姿に絶句した。出掛けに着ていった美しいチャイナ服が無惨に破れている。手や顔に幾つも傷をつくり、しかも右頬は赤く腫れ上がっている。
「これ、壺のお代……」
リュミエールは抑揚のない声で金の入った小さな巾着をオリヴィエに渡した。
「お代なんかより、どうしたかって聞いてるんだ、まさか、まさか?」
オリヴィエはリュミエールの肩を揺さぶって尋ねる。
「い、痛い」
リュミエールはオリヴィエと顔を合わさないで、小さく呻いた。
「ご、ごめん、でも、あの英吉利紳士に本当にやられちゃったの?」
「露骨な言い方はやめて下さい、貴方がそう仕組んだくせに」
「だってリュミエールってば強いじゃない、今までだって適当にかわして逃げてきたし」「相手がわたくしより強いって事は考えなかったんですか?」
「アンタより強い奴なんか滅多にいやしないって思って」
「いいですよ、もう。お金も貰えたんだし、家賃も貴方のタキシード代も払えますし、わたくしの体なんかどうでも」
「ごめん、ごめんよ、リュミエール。こんな事になるなんてワタシ思ってもいなくて、許してって言ってもダメかな? どうしたら……」
オリヴィエが、言い終わらないうちにリュミエールは、青い顔をして側にあった椅子に座りこんだ。
「ふふふ、変ですね、こんな事があった後なのに、お腹が空くなんて」
リュミエールは項垂れたまま、呟く。引き裂かれた衣装から覗く白い肩が痛々しい。「お腹空いたの? じゃ、海風飯店で何か出前取ったげるよ」
「海風飯店は異国の金持ち相手の店、とてもわたくしたちが、出前を取れる店ではないでしょう」
「いいの、ほらこのお金も入ったし、これはリュミちゃんが体で稼いだお金だもん」
「体で稼いだ……」
「あ、ご、ごめん、別にそういう意味で言ったんじゃなく」
「いいです、本当にもう」
「あ、あのワタシ、ひとっ走り行って注文してくるから、待ってて、ね、待ってるんだよ」オリヴィエは猛ダッシュで表通りの海風飯店まで走った。が、正面ではなく厨房のある裏手に回り、勝手口の戸を開けた。
「ランディ! ランディ〜いるっ」
「なんだよ〜、オリヴィエ、残飯なら今日はまだないよ〜」
中からコック姿のまだ若い青年が中華鍋片手に、出てきた。
「残飯漁りに来たんじゃないんだ、料理注文しに来たんだ、ちょっとね、リュミエールの具合が悪くてそれでここの料理を食べれば元気が出ると思って、ね、頼むよ、なんか作ってやって。ほら、お代は持ってるから」
「でもウチの店は出前なんかしないんだよ」
「ワタシが持ってくからさ、リュミエールに食べさせたらすぐにお皿も返しに来るよ、ね、お願い」
「わかったよ。でも本当に皿、返せしてくれよ。絶対だぞ」
「ガメらないから安心しなってばっ」オリヴィエは海風飯店の勝手口で、なんとかしてリュミエールに許してもらう手だてを考えながら料理ができるのを待っていた。しばらくしてランディが料理の皿を二つ持って出てきた。
オリヴィエが水夢骨董堂に戻るとリュミエールは奥の部屋で膝を抱えていた。湯を使い、夜着に着替えていたので、さきほどよりは悲惨な感じはしないものの頬の腫れはまだ痛々しい。
「できたよ、これ清炒蝦仁と叫花童鶏」
「ありがと、じゃ、食べさせたらすぐに皿は持ってくるからねっ」
「ほらっ、温かいうちに食べて、ねっ」
「ありがとう、オリヴィエ。では遠慮なく。貴方の分は?」
「ワタシはさ、お腹空いてないから(ぎゅるるるるるる)あ、はははははは」
「そ、そうですか、では。あ、美味しい」リュミエールが食べている間、オリヴィエはその匂いをオカズに乾パンをつまんでいた。その乾パンを五つほど食べたところで、リュミエールがご馳走様と小さく呟いた。
「オリヴィエ、お腹が一杯になったら眠くなりました。あんな事があった後なのに眠くなるなんて、わたくし可笑しいですね」
儚げに小さくリュミエールが呟くとオリヴィエはいたたまれない気持ちになった。
「ううん、そんな事ないってば、ね、今日はグッスリ眠って、何もかも忘れて。明日はまたいつものリュミちゃんになっておくれよ、今日の事は本当に、あの、ごめん」
「自分の身を守れなかったわたくしも悪いんです。貴方を恨んでなんかいやしません」
「リュミエール……ぐすん……あ、そだワタシさ、お皿返しに行かなくっちゃ。おやすみ」
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注
◆清炒蝦仁(チンシャオシアレイ) むきエビの炒め物。
◆叫花童鶏(ヂアオホアトンヂー) 鶏のハスの葉包み焼き。