◎春の章◎

 

 
 オリヴィエは空になった皿を抱えてリュミエールから逃げるように部屋を出た。そして、海風飯店のランディに皿を返した後、リュミエールが完全に寝入ってしまうまで帰りたくなくて南京路で夜風に当たっていた。
「あれ? 何してんだよ、オリヴィエ? おめー、貧乏だからってついに客引きか?」
 声をかけてきたのは、ゼフェルという靴磨きの少年である。
「殺されたいかっ? とっととおいきっ」
「お〜こわ、ところでリュミエール大丈夫だったか?」
「えっ? なんでアンタが、リュミエールの事知ってるのさ?」
「だって、さっき一緒だったんだ、オレ、店まで送って行こうかって言ったんだけど、大丈夫って言うしさ」
「一緒だったってアンタ、アンタもやられたの??」
「やられたって何言ってんだい? 自転車にやられる?」
「自転車って?」

「ほら、そこの自転車屋に入った西洋の新しい形の自転車の事さ。よしなって言うのにリュミエールってば、あんなチャイナドレス着たまま乗り回して、案の定そこのドブ板踏み外して、すっ転んであの様さ〜、そうとう強くぶっ転んだからな〜」
「ちょい待ち、その自転車に乗る前はリュミエールは普通だったんだねっ」
「ああ、商売が上手く行ったとかで、気分がいいんですよ、わたくし〜、なんて言ってたぜ」
「そりゃいい事教えてくれてありがとうね〜」
 オリヴィエは背中に怒りの炎を背負って、帰宅した。静まりかえった店内を抜け、寝室に入る。大きな寝台に、大の字で寝ているリュミエール。

「てめー、リュミ公起きやがれ〜」
「むにゃむにゃ…何事ですか? わたくしは今日は疲れて……ぐーっ」
 オリヴィエはリュミエールの襟首を掴んで、パンッと平手打ちを食らわした。

「あ、イタタタ、何をなさるんですぅ〜」
「よくもよくも騙したな〜、ワタシはてっきりアンタがやられたと思ってっ」
「わたくしは何も言っておりませんよ、貴方が勝手に誤解したんでしょ」
「もう許さない〜っ」

 オリヴィエはリュミエールに馬乗りになって長い髪を引っ張り上げる。
「止めて下さいってばぁぁ〜、元はと言えば貴方が悪いんですよっ」
「うるさいっ、人がどれだけ心配したと思ってんのさ、もしもアンタに万が一の事があったらと思って、ワタシは、ワタシはねぇぇぇぇぇっ」
「ひぃぃぃ〜心配なら今度からあんなあこぎな商売の仕方はしなければいいでしょう〜」

「何言ってるのっ、そうでもしなくちゃ仏蘭西行きの旅金なんか作れやしないんだ、二人でここから抜け出して仏蘭西へ行く夢は忘れたのぉ〜っ」
「忘れやしませんけど〜イタタタ、放して下さい〜。一朝の怒りに其の身を忘れ、以て其の親に及ぼすは惑いに非ずや〜」

「何をワケわかんない事を言ってんのさ、ごめんって言いなっ、くそ〜吐け、海風飯店の料理ぃぃ〜」
「いやです〜もう一生食べられないかも知れないのに〜グゲッ」
「ぐやぢぃぃぃ〜」


 ◆一朝の怒りに其の身を忘れ、以て其の親に及ぼすは惑いに非ずや
 一時の怒りに我を忘れて乱暴や迷惑な事を肉親にまで及ぼすのは甚だしい過失だ。

−春の章 終−

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