◎秋の章◎

 

 南京路と西蔵路[シーザンルー]の交差するところに競馬場はあった。英吉利租界の金持ちは競って馬主になりたがり、自ら騎手として馬に乗る者もいた。シルクハットに燕尾服の紳士が着飾ったドレス姿の淑女を連れて、特別観覧席に入ってゆく。正面観覧席にも同じように着飾った西洋人たちが、ごった返している。競馬場内に入れない中國人たちは、コースの周りの垣根を取り囲み、各々が胴元から手渡された馬券を手に、レースの始まるのを今や遅しと待っていた。

 オリヴィエとリュミエールは、オスカーから貰った招待状のお陰で、末席ではあるが中央観覧席の角に座っていた。オリヴィエは一張羅のタキシード姿である。リュミエールは、持っている中で一番いい服は目も醒めるような蒼地に花鳥風月の模様を散りばめたチャイナ服なのだが、中國人を忌み嫌うものも多い西洋人の社交場ではそぐわないので、仕方なく水色のダブルのブレザーに白いシャツ、スラックスという出で立ちである。二人の容姿は例によってその場の人々の注目の的になっているのだが、当の本人たちは慣れてしまっているのでいつもと同じテンションで喋っている。

「リュミエールってば、ちゃんとクラウドラグナロクの馬券買った?」
「ええ、本当にこの馬、いいんでしょうね?」
「モチロンさ〜」
 別に深い根拠があるわけではないが、たまたま他の者が「いいらしい」と噂していたのを小耳に挟んだのでオリヴィエはリュミエールに言っただけの事なのだが。

「もし儲けたら冬用のコート買わなきゃ〜、去年寒くてエライ目にあったじゃない〜。カシミア……は無理だけどぉ、せめてちゃんとしたウールのコートが欲しいよ〜」

「そうですね、そろそろ夜の冷え込みも強くなってきましたしね……あっ、ゲートに入りますよ」
 艶やかな乗馬服に身を包んだ騎手がそれぞれの馬を率いてゲートに入る。その中でもひときわ目を引いたのが九番ゼッケンをつけた馬、セフィロスジェノバという白馬に騎乗している騎手である。

「あっ、あれは蓬莱国賓館のオーナーのジュリアス様ではありませんか?」
「ホントだ〜そう言えば前に壺を売りつけに行った時、オフィスに上海乗馬倶楽部の紋章入り灰皿置いてあったよね〜思わずガメってやろうかと思ったんだけど。ははぁ〜オスカーの招待状の出所はジュリアス様だったんだね〜」

「あら、あれって宵闇亭のマスターでは……」
 リュミエールは後方からゆっくりと現れたヴィンセントウィンチェスターいう名の漆黒の馬を指さした。宵闇亭のマスターの黒髪が風になびいている。ジュリアスが、純白に金糸のベストを着ているのと対照的に彼は黒に銀糸のベストを着ている。

「うひゃ〜ホントだ〜、こりゃ面白いレースになりそうだね」
「でも二人とも騎手としては大きすぎますね、あれでは馬に負担がかかるでしょう。その点から見てもわたくしたちの買ったクラウドラグナロクの騎手は小柄ですからね」
 リュミエールは菫色の瞳のまだ少年とおぼしき騎手を指さして言った。

「さぁ、いよいよ始まるよ〜」
 オリヴィエが叫んだのと同時にレースはスタートした。歓声が上がる。
 飛び出したのは、ジュリアス騎乗のセフィロスジェノバ、続いてヴィンセントウィンチェスター、リュミエールとオリヴィエの賭けた馬は中番手に位置している。

「行け〜っ、負けるな〜」と叫んだのは、観覧席にいた上品な紳士の一人である。それが引き金になって、長手袋にボンネットという出で立ちの淑女までもが、立ち上がり絶叫している。

「下品ったらないね、あんな大きな声でわめくなんて……ねぇ、リュミエール? あら? どこへ行っちゃったの?」
 オリヴィエはさっきまで隣にいたはずのリュミエールを探した。と観覧席の前列、コース間際の柵の前でリュミエールは握り拳を上げつつ、叫んでいる。

「負けてはなりませんよ〜走るのですぅぅぅ〜そこで一気にまくるのですっ」
「ワタシ、時々リュミエールの性格がわかんなくなるよ〜」
 と言いつつオリヴィエもリュミエールの隣に移動した。

レースは中盤から後半にさしかかり、追いつ追われつを繰り返していたセフィロスジェノバとヴィンセントウィンチェスターがお互いを意識しすぎてズルズルと後方に下がりレースは一気に終盤へと雪崩れ込んでいた。

『さぁ、最終コーナーを回った、レッドバレッタ、クラウドラグナロク、そのすぐ後に続くのは、レノタークスか。四番手のユフィホークアイも牝馬ながらしぶとい走りで好位置につけている、さぁ最後の直線だっ、ハナひとつ出たのは、クラウドラグナロクか? ……おおっと大外から一気に上がってきたのはなんと、ケットシーメガホンだっ、ケットシーメガホン速いっ、体重増加の調整ミスのはずのケットシーメガホンが怒濤の走りで一着〜、大穴です〜大穴ですぅぅぅぅ〜』

 場内にアナウンスが流れると、どよめきと溜息がこだました。
「あ〜あ」
「はぁぁぁぁ〜ガックシ、なんだってあんなブタ馬が一着に〜」
「オリヴィエ……貴方、確かな情報筋からの話だと、絶対クラウドラグナロクが勝つって言いましたね」
 リュミエールは馬券を冷ややかな目で引き裂くとオリヴィエを睨みつけた。

「だけど勝負は時の運って言うかぁ〜」
「確かにそうですね……仕方ありませんね、さぁ帰りましょう」
 と言うとリュミエールはニッコリと微笑み、出口に向かった。

「あら、なんだか今日はアッサリ引き下がったね〜、いつもだったら、許しませんよ〜とかなんとか言いながら、首根っこをキュュュュ〜っと……あれ? 待ってったらぁ〜」

 オリヴィエは不審に思いつつ、リュミエールの後に続いた。リュミエールは歩きながらメモを見て呟いている。
「ええっと劉さん、張さん、それに周さんが、それぞれ五元ですね、ああ可哀相に曹さんは十元も負けましたね……おやおや孔さんてばあれだけウンチク言っておいて二十元の負けですか……大穴のお陰で親の総勝ちでしたね〜オリヴィエ〜わたくしちょっとご近所まで取り立てに行って参りますからね〜先に帰って店番お願い致しますよ」
「リュミちゃん……アンタいつの間に競馬のノミ屋やってたの……あ、ちょっと、いくらなんでも耳に挟んだ赤鉛筆は取っていきなってば〜」


◆◇◆

 数日後……。
「おかえりーっ、どうだった?」
 オリヴィエは、絵画コンテストの結果発表に出向いていたリュミエールに言った。
「ダメでした、二等でしたよ……」
「そう……残念だったね」
「オリヴィエ、マダム・セイランってご存じでしょう?」
「う、うん。知ってる……前にパーティで会った」
「以前、言い寄られて振ったでしょう?」
「うん、綺麗だけど可愛くないんだもん、性格が〜」
「審査員の一人がマダム・セイランだったんです。で、わたくしの絵のモデルが悪いと仰ってそれで……」
 リュミエールは溜息をついた。

「あらぁ〜酷い〜」
「マダム・セイランがわたくしの絵に難癖つけなければ、わたくしの絵が一等で仏蘭西行きの切符が貰えたのに……」
「で、でも二等でも、何かいいもの貰えたんでしょ〜ね、ほらほら気を取り直して、ね」
「二等は海風飯店お食事券……これだけ」
 ポケットから海風飯店の名前の入った食事券をリュミエールは取り出した。

「それだけ? 一等と二等、賞品にえらく差があるんだねぇ、まぁいいじゃない、美味しいもの食べに行こうよ、海風飯店でちゃんと食事する事なんか滅多に出来ないんだし、一応、タキシード着て行った方がいいかなっ」
 オリヴィエは少し嬉しそうに箪笥を開けた。

「何言ってるんです、お食事券は一枚だけなんですから」
 リュミエールは悲しそうな顔をして、食事券を見せた。
「そんな〜」
「という事で、お食事券は当然、わたくしのものです」
「ちょっとっ。ワタシはパンツまで脱いだんだよ〜、お食事券はワタシにも使う権利があるっ。およこしーっ」
 オリヴィエはリュミエールの手から食事券を奪い取ろうとした。

「ダメですってば、わたくしのものです」
「この前、ワタシを騙くらかして海風飯店で出前取らせたじゃないの、今度はワタシが海風飯店で食べるんだーっ」
「そんな昔の話をいつまでもよく覚えていますね、オリヴィエは芸術の為にパンツを脱いだんでしょう。大体、貴方さえ、マダム・セイランとよろしくやっていれば、一等を逃す事もなかったのに」
 リュミエールは執拗に迫ってくるオリヴィエを払いのけながら言った。

「好きでもない相手とよろしくなんて出来ないねっ」
「据え膳食わねば男の恥と申しますからね、相手が男ならともかく女性だったんですから一回位寝て差し上げればよかったんです」
「寝て差し上げる……じゃリュミエールならそゆ事、平気なんだね、フケツ」
「平気ですよ、女性ならばっ、何がフケツなんですかっ、それ位でフケツならオスカーなんて今頃死んでます」
 二人は食事券の端を掴んで引っ張り合った。

「破れてしまうでしょう、離しなさい」
「リュミこそ離しな〜」
 ビリビリビリ〜派手な音を立てて、食事券は二つに千切れてしまった。

「あ〜あ」
「わたくし、知りませんっ」
 リュミエールはオリヴィエに背を向けて怒っている。オリヴィエは千切れた半分を見つめて溜息をついた。

「は……、あれ?リュミエール、これっ」
 オリヴィエは破れた食事券の裏をリュミエールに見せた。

「なんですっ、え?……【本券一枚にて二名様までご招待いたします。破損、半券の切り離し無効】……」
「ふっふっふ……リュミエール、今日という今日は覚悟しなよ〜」

 

−秋の章 終−

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