◎冬の章◎

 

 「うー信じられない、そんな腐った豆、食べるなんて〜」
 リュミエールが小鉢で納豆をかき混ぜているのを見てオリヴィエは鼻を摘む。
「貴方こそ、腐った豆腐、食べてるじゃないですか」
臭豆腐はレッキとした食べ物だよっ」
「ふう……貴方、とうとう納豆が食べられませんでしたね……」
 とリュミエールは少し遠い目をした。

「そうだねぇ、十一歳の時から先生のお家にお世話になってたけど、納豆はダメだったね、毎朝、納豆が食卓に上がるんだよね、まいったよ」
「わたくしは生まれたての頃に先生に拾われましたからね、離乳食に納豆粥ばっかり食べさせられたんですって」

 リュミエールは納豆の入った小鉢をクルクルとかき回しつつ言った。とその時、店のドアが軋んで開く音がした。

「おーい、いるかぁ〜」
「おはよう〜」
 ゼフェルとランディの声である。二人は勝手知ったるとばかりに店と応接間を抜け、台所の戸を開けた。
「うっ、臭っせー、納豆、食ってやがる」
 ゼフェルは思わず鼻を摘む。
「だろ〜ゼフェルも臭いって思うよねー」
 オリヴィエは味方を得て嬉しそうに言う。
「そうかなぁ、納豆って栄養もあるし奥深い味だよ」
 とランディがそう言うと、リュミエールは納豆の糸を巻きながら微笑んだ。

「ゼフェルも納豆が食べられたら、せめてランディくらいには背も伸びたでしょうにね」
「なんだとぉぉー」
「気に障りましたか? ふふふ」
 リュミエールは納豆をゼフェルの鼻先に突きつけながら言い返した。

「よせよ、ケンカしにきたんじゃないだろ」
 ランディはゼフェルを止めると、少し意味ありげな顔をしてオリヴィエを見た。
「何かあったの?」
「知恵の木学園が立ち退きを迫られてるらしいんだ」
 知恵の木学園……はオリヴィエとリュミエールが育った孤児院である。ゼフェルもランディもこの孤児院で育っている。
「なんだって? で、ルヴァはどうするって?」
 ルヴァというのはこの孤児院の園長で二代目である。初代の園長はリュミエールやオリヴィエを育てたルヴァの父である。ルヴァは日本人の父と中國人の母の間に生まれレッキした【大地】という名前があるのだが、何故かルヴァという愛称で呼ばれていた。

「よくわからないんだ、ハッキリ決まったら話すって言うんだけど」
 ランディは心配そうに呟いた。
「ルヴァのヤツ、なんか一人で抱え込んでやがんだよなー。それでよ、オリヴィエたちになら何か話すかも知れねーと思ってさ」
「わかりました、すぐに学園まで行ってみますからね。これから貴方たちは仕事があるのでしょう? 心配しないで行ってらっしゃい」
 リュミエールは最後に残った一口の納豆とご飯をかき込んだ。

◆◇◆

 知恵の木学園は虹口[ホンキュウ]地区と呼ばれる日本租界にあった。水夢骨董堂からは、蘇州河を渡った北の方角になる。呉淞路[ウースンルー]に入るとそこは日本の街だった。日本人の経営する店の立ち並ぶ通りを少し入ったところに上海神社があり、その近くに知恵の木学園があった。蜜柑と柿の木が植えられている木造作りのこじんまりとした学園である。

「ランディたちですね……ハッキリするまで話すつもりはないと言ってあったのに」
 ルヴァはオリヴィエたちに問いつめられて仕方なく話し始めた。
「土地の契約更新が出来なかったんですよ……。最近、抗日運動が盛んになってきているのは知っていますね。純粋な日本人である父が生きていたならともかく、半分中國人の血が入っている私には、これ以上貸せないと」
 ルヴァは悲しげに言った。

「ここは上海なんだよ、日本じゃない、何をデッカイ面してよそ者なんて言うのさ」
 オリヴィエは声をあらげた。
「そういう日本人の態度が抗日運動に拍車をかけているのに……」
 リュミエールは悲しそうに呟いた。

「いろいろ掛け合ってみたんですが、どうも軍も絡んでいるようで」
「なんだって軍が絡むワケ?」
「陸戦隊本部のね、宿舎にしたいらしいんです、この場所。年明けには出て行けと」
 そう聞かされてオリヴィエとリュミエールは溜息をついた。

「でも立ち退きはいい機会かも知れません。母親は中國人ですけど、父親はランディは亜米利加[アメリカ]人、ゼフェルは独逸[ドイツ]人という事がハッキリしていますし、他の子たちもほとんど、中國人と外国人の混血児、日本租界の中で暮らすより、他の場所の方が住み易いかも知れません」

「そりゃそうかも知れないけど……アテはあるの?」
「……交渉はしているんですが……」
 ルヴァの語尾が小さくなる。

「わたくしたちも心当たりを探してみますから」
「すみませんね、いつもお世話になってしまって」
「何いってんの〜、ワタシたちはここで育った兄弟じゃないのさ、血は繋がってないけども〜」
 オリヴィエはルヴァの両肩に手を置いて言った。

「ありがとう、オリヴィエ、リュミエール」
 ルヴァはそう言うと、目頭をそっと押さえて俯いた。

◆◇◆

知恵の木学園からの帰り、オリヴィエとリュミエールは押し黙ったまま歩いていた。立ち退きの事が気になるのだ。
「立ち退くとなるといろいろお金がかかるでしょうね」
 と沈黙を破ったのはリュミエール。

「うん、お金、ないんじゃないかな、ないよねぇ。ワタシたちの仕送りと、ルヴァが書道を教えて稼いでいる分だけじゃ食べるだけで精一杯だよ。ランディとゼフェルもいくらかルヴァに渡してくれてるけど」
「ランディはまだ見習いのコックですし、ゼフェルは靴磨きや鉄工所でアルバイト、二人とも遊びたい盛りなのによくやってくれていますよね」
「リュミエール……ワタシたちの仏蘭西行きの為の貯金……ね、あれさ……」
「オリヴィエ、わかっていますよ」
「うん……」
 二人はまた黙ったまま南京路まで歩いた。

「わたくし、ちょっとオスカーの事務所に寄ろうと思うのですけど……。何かいい物件がないかと思って。オスカーなら顔も広いですし……」
 とリュミエールは言った。

「うん、ワタシも一緒に行きたいけど、店も開けなくちゃなんないし、頼むよ」
 オリヴィエとリュミエールは南京路と四川路の交差点で分かれた。オスカーの事務所は四川路を北に入った雑居ビルの三階にある。怪しげな社名のドアを一つ一つ確認しながら、リュミエールはようやくオスカーの事務所に辿り着いた。

 【ニューヨークタイムズ上海支局分室】と書かれた文字を乱暴に消してその上に【オスカー探偵事務所】と殴り書きしてある扉をリュミエールはノックした後、静かに開けた。

「よう! どうしたんだい、こんなとこに来てくれるなんて」
 オスカーは入って来たのがリュミエールだったので嬉しそうな顔をした。相変わらず洒落たスーツを着てはいるが事務所の中は簡素な事務机とすり切れた黒革のソファの応接セットだけ。

「おはようございます。オスカー」
 リュミエールは丁寧に挨拶すると、オスカーの事務所の部屋を見回しながら、ソファに腰掛けた。
「むさくるしい所ですまんね、で、何か用なのかな? それとも俺の顔を見に?」 
 オスカーのいつもの軽口にも乗らずリュミエールは、立ち退きの一件を話す。

「なるほどな……難しい物件探しだな。子どもが住むとなると治安のいい場所がいいだろうが、そういう場所に住む連中は孤児院を嫌がるだろうしな。広さもそこそこいるだろう、金の方はどうなんだ?」
 オスカーは壁に貼られた上海の地図を見ながら言った。

「……少しくらいは用意できるんですが……」
 リュミエールは貯金壺の中身を思い浮かべながら答えた。
 「仏蘭西行きの旅費……二人分くらいの金は用意できる……か」
オスカーはそれを見透かしたように言った。リュミエールは何も言わず黙って頷いた。

「まかしとけよ、心当たりがあるから、聞いてみる。そんな暗い顔するな、綺麗な顔が台無しだぜ」
 オスカーはリュミエールの頬に口づけせんばかりに近づくと耳元でそう囁いた。

「おっと、ここでは投げ飛ばさないでくれよ」
「お願い事に来ているんですから、そんな事しませんよ」
 リュミエールはオスカーの耳を思いっきり引っ張って言った。
「安くていい物件が見つかりましたら接吻くらいしてさしあげてもかまいませんけどね〜」

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◆臭豆腐(シュウデフ)  豆腐を腐らせて油で揚げたもの、当時屋台などで売っていた極めて庶民的な食べ物。