「しばらく仏蘭西へ行こうと思っています。それで、出発前に貴方に逢いに来ました。何か言伝があればと……」
含みのある言い方だった。
「オリヴィエに逢いに行かれるのですか? その為にわざわざ私にまで逢いに? 緑さん、季節の行事ごとに、知恵の木学園に寄付を頂いていたのは、単なる慈善事業の一部としか思っていませんでしたが……」
そこで少し言い淀んでから、李は静かに言った。
「オリヴィエと貴方は、何か関係があるのではとずっと思っていましたが……個人的なことなら聞くまいと思っていました。でも……」
「昔……私は彼がまだ幼い十かそこらの頃に出逢いました」
緑は静かに話し出した。
「香港の男娼館の頃の……?」
「その時から私はオリヴィエに夢中だった。そして上海で成長したオリヴィエと再会した。私は彼を手に入れたくて、私の元で働くしか出来ないように、さんざん邪魔をしたが、苦力になってもヤツは私の処に来なかった。その苦力の仕事さえも彼から奪った時、オリヴィエは……」
緑は少し戸惑い天井を見上げた。そして……。
「私を脅してきたんです。私は、香港の男娼館に滞在していた時、愛人でもあった義父を理由あって殺めてしまいました。オリヴィエは偶然それを見ていたらしい。彼は知っていながら誰にも言わなかった。事件は事故として処理されました。随分、昔の事件だから今更、警察も動きやしませんが、義父は青幇の人間でしたから、その事が組織に知れると私も面倒な事になる。仕方なしに、私は二度と邪魔はしないとオリヴィエに誓った。そこで私たちは少しはわかりあえる仲になったと思う。私たち二人はお互いの境遇に似た処があったし、私が彼に惹かれたように、オリヴィエも……彼も心の奥で、私に惹かれているはず……と私は勝手に思っているんです、今もね」
緑は少し照れくさそうに言い、俯いた。
「オリヴィエは、饒舌なくせに、肝心な所で押し黙ってしまうところがあります。普段は、自分本位で我が儘に振る舞っているくせに、最後の最後でスッと引いてしまうような。捨て子だった事や男娼館にいた事、物乞いや窃盗さえもした事があると笑いながら言ってましたが、その実、私やリュミエールに対して、その事を心のどこかで卑下していたのかも知れない。幼い頃の自分を知る貴方には、いまさら何をどう格好をつけても仕方がないと思って血の繋がった者のように思っているのかも知れません」
「ええ、今はもう手に入れたいというよりも、ただオリヴィエが気にかかる。私には肉親はいないから、彼がまるで弟のように。もちろん手に入ったらそれはそれで嬉しいことだが」
緑は臆面もなくそういうとニヤリと笑った。
「あ〜頑張って下さい」
と少し困った顔をしながらルヴァはそう言い、笑った。そして、煎れかけにしてあった茶壺から茶海に注ぎ入れた。繊細な香りが仄かに漂う。李は手際よく、それを六つ茶碗に注ぎ分けた。
「どうぞ」
李はそのうちのひとつを緑の前に置いた。緑が残りは誰が? と訝しげにした表情をルヴァは見逃さずに笑った。
「この茶器を一人で使う時はいつも、こうするんです。一つは私。それから死んだ両親に捧げます。オリヴィエとリュミエールにも。仏蘭西ではなかなかこのお茶は飲めないでしょうから。でも最後には、いつも全部、私が飲んでしまうのですが」
それから二人は黙ってお茶を飲んだ。遠くで学生たちの抗日の叫び声が聞こえてきた。やがて、それは団結を高めようとする何かの歌声に変わる。
「きっとあの二人の耳にも、今の中國の様子は届いているでしょうね。緑さん、どうか、オリヴィエとリュミエールに私は元気でいると伝えて下さい」
「ええ。あの……船の……私の客室は広い。もし、もしも一緒に……」
緑は李の目を見ながら、小声で言った。
「ありがとう、緑さん。でもね、私は見届けたいんです、この國の行く末を。確かに私は日本人として育ちましたが、と同時に中國人でもあるんです。ここは紛れもなく私の祖國ですから」
穏やかにルヴァはそう言った。
「わかりました。どうかお元気で」
立ち上がると緑は、ルヴァの手をしっかりと握りしめた。
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