第四章 水夢骨董堂
雨の季節は終わり、上海に夏が来た。緑が手出しをしなくなったからと言って直ぐに職にありつけるはずもない。緑の目の届く四馬路や南京路で支給係をするのも躊躇われて、結局、オリヴィエはもう一度、港で苦力の仕事をすることにした。
「美楽園の方とは話は付いてるんだ、もう一度雇ってくれない?」
とオリヴィエは苦力の束ね役に頼み込んだのだ。
「本当に話はついてるんだろうな。こっちも荷札を読む程度で、通訳を雇うのは馬鹿らしいしな。荷運びじゃたいして役に立たないが今まで通り十元……いや八元でいいなら雇うが。字も読めるし、なりだって悪くないお前が苦力をしようってんだ、何か後ろ暗いことでもあるんだろう?」
「随分足元を見てくれるね。何も後ろ暗い事なんかないけど、いいよ八元でも」
それでも普通の中國人苦力に比べれば倍の給金なのだ。紡績工場で童工として働いている子どもたちの給金に比べたらと、オリヴィエは溜息混じりに承諾した。
暑さの中での苦力の仕事はオリヴィエには辛いものだった。陶器のような白い艶やかな肌は日に焼け、軽やかな羽根のような髪は藁束のようになって汗まみれの背中に貼り付いていた。見かねたリュミエールは、オリヴィエになんとか苦力以外の仕事につけないものかと懇願した。
(探してはいるんだけどね、なかなかね……もう少しして涼しくなったら……また租界では舞踏会とか秋の大競馬があるから、きっと金持ち連中はドレスを新調するだろう……そしたら服屋が針子の仕事を募集するからそれまでは苦力で頑張るよ……リュミエールだって秋になれば絵のコンテストがあるだろ、きっと入賞は確実だからその賞金で少しはラクできるよね、お互い、も少し頑張ろうよ)
と染色工場で技師とは名ばかりの仕事をしているリュミエールの藍色に染まってしまった指先を悲しみながらオリヴィエは言った。
夕べ、そうしてリュミエールと励まし合った事を思い出しながらオリヴィエは炎天下の中、木箱を人力車に積み上げ続ける。
とその時「オリヴィエ〜オリヴィエ〜」という港の喧噪には場違いなゆったりしたルヴァの声がした。
「どうしたのさー、何かあったの?」
オリヴィエは木箱を積む手を止めて、桟橋近くで手を振るルヴァに向かって叫んだ。
「親方〜少しだけ休憩させて。後で余分に働くからさ」
苦力の束ね役の親方に断ると、オリヴィエは手ぬぐいで汗を拭きながらルヴァの元に駆け寄った。
「何かあったの? どうかした?」
「さっき、工部局の人が来ましてね……四川中路の骨董屋のご老人と懇意だったんですか?」
「出し抜けにどうしたの? 工部局って?」
「その骨董屋さん、三日前にお亡くなりになったそうです」
「え! 水夢大人(シュイモンターレン)が? やっぱり具合悪かったんだ……」
「お身内が無いそうで、近所の方たちが工部局に届け出たんだそうです。そしたら店に遺言状があって、知恵の木学園と貴方の名前が書いてあったそうです。貴方に店を譲りたいそうです。店の土地は借地だそうですが、建物と中の家具や骨董類など全部……何か聞いていましたか?」
「うん……前に儂が死んだら店をやるって……でも冗談かと」
「どうです? 受けますか?」
「だけど、そんなに貰えるほど親しかったわけではないよ、いつも配達に行くとお茶入れてくれてね、ちょっと喋ったりして……ワタシが少しだけ日本語できるから嬉しかったみたいで……」
「工部局からの提示では、もし遺言状通りに貴方がご老人の遺産を受けるならば、このご老人に係る一切の責任をも負わなくてはなりません」
「どういう事?」
「つまり……あ〜貴方が責任持って弔ってあげるということですよ」
「お葬式とか……お墓とか?」
「そういうことです。もしも老人が借金を残していたりすると、それは貴方の負債になりますし……土地は借地だし、店もそれほど大きくないし、骨董とは言ってもそれほど価値のあるものはなさそうなので、オリヴィエが遺産相続してくれるとお役所としても助かる……と仰ってましたよ。ご老人は日本人なので、弔い方ひとつにしても、無縁墓地にいっしょくたに入れられるよりは、日本式にしてあげた方がいいだろうしって。一応、私は日本人ですしね、丁度いいと思ったんじゃありませんかねぇ」
「わかったよ……。店のガラクタを売りさばいたら葬式代と小さな墓石くらい建ててあげられると思うし……」
次の日、工部局で手続きを済ませると、オリヴィエの手元には、水夢骨董堂の鍵と見事な筆文字で書かれた遺言状が手渡された。工部局を、出るとオリヴィエはそのまま水夢骨董堂へ向かった。
受け取った鍵で中に入るとオリヴィエは、店主だった水夢大人が、いつも座っていた椅子に腰掛けて店内を見渡した。
店の奧の壁の棚には古今東西の茶器がズラリと並べられていた。左右の壁には無造作に木箱が積み上げられている。少し値打ちがありそうな壺が、ひとつだけガラスケースの中に納められていた。カウンター代わりに店主がしていた茶箪笥の引き出しを、オリヴィエは開けた。銀色の煙草ケースの下に、オリヴィエの名前の記された白い封筒が見つかった。これは筆文字ではなく羽根ペンで上海語で綴ってあった。
『迷惑でなかったらこの店を貰って欲しい。全部売り払って仏蘭西行きの旅費の足しにして欲しい。でも、もしこのままこの店で商売を続けようと思うなら下の引き出しの中に顧客名簿や仕入先の資料と儂からの紹介状を入れてある。お前の好きにしてくれていい。オリヴィエ、夢はお前と共にある。あきらめるな』
「骨董のことなんかわかんないよ……大人。アンタの葬式代とお墓代が必要だから、ここのガラクタどっかに売りさばくくらいはするけどさ……」
オリヴィエは呟きながら、店の奧の棚に埃をかぶって所狭しとならべられている壺や茶器を眺めた。ふと、いつの日の事が水夢大人と交わした会話が蘇る。
『オリヴィエ、この棚の中で一番、高価なのはどれだと思う?』
『そうだね〜、んと、まず、これとこれとこれ……かな』
オリヴィエは棚の中から、小さな野薔薇模様のティーカップと青い花の描かれた古びた色合いの碗、縁の欠けた翠の龍の絵の入った皿を選び出した。
『どうしてそれを選んだ? こっちの方が高そうに見えるだろう』
棚の中央に他とは明らかに区別されて置かれた器を指して水夢大人は言った。
『それは金箔も使ってあって豪華そうだけど、なんか下品だよ。ワタシの選んだのは全部、直感だけどさぁ』
『鋭いな、お前は。一番高価なのは、この翠の龍の皿で、この薔薇模様のカップは西洋の骨董品でまぁまぁの値だ。この青い花柄の古びた碗は……ウチの店で一番安物だ』
水夢大人は嬉しそうに笑いながら説明した。
『アレ? それが一番高いと思ったのになぁ』
『さよう、仕入れ値は一番安い、だが売る時は一番高くなる。実はこれは、清の景徳鎮の磁器……の写しでな。裏の茶碗屋のオヤジが趣味で作ってるのを二束三文で仕入れたんだ。売る相手は明日にも本国に帰ろうという西洋人に限る。よいか、こう言うんだ。
旦那様が近々、本国にお帰りになるとお聞きいたしまして駆け付けた所存にございます。実は手前共の店に、二度とは手に入らぬ逸品が回って参りまして……ご覧下さいまし、この器。清朝全盛期に作られた器で、乾隆帝の愛用のお品でございます。器の底に微かに【乾】の墨字が見えておりましょう、まさしく愛用の品に記されるお印、取り急ぎの事で、鑑定書は手元にまだ届いておりませんが、後日必ずお国まで送付させて頂きます、とな。なぁに鑑定書なんざー適当に書いて送りつければいい、どうせ漢字なんか読めやしないんだから連中は』
そう言うと水夢大人はオリヴィエにウィンクして見せた。
「水夢大人ってばいい年して、お気楽なじーさんなんだから……。ワタシにこんなガラクタ押しつけちゃって……」
煮え切らぬ思いで骨董堂を後にし、波止場まで仕事に出たオリヴィエは、苦力の束ね役にいきなり胸ぐらを捕まれて倉庫の物陰に連れて行かれた。
「お前みたいなヤツが苦力だなんておかしいと思ってたんだ。工部局の犬とはな!」
殴りつけんばかりに苦力の束ね役はいきなりそう言った。
「何言ってるんだか?」
「白々しい、お前が朝一番に工部局の建物に入っていくのを仲間が見てたんだ」
「ワタシの知り合いが死んだんで、その手続きに行っただけだよ、言いがかりはよしな」
「信じられないな、とにかくお前はクビだ」
「ふん、いいさ。でもこれだけは言っとく。ワタシは絶対、スパイなんかじゃないからね。アンタが積み荷を時々搾取してることくらい知ってるけど、誰にも言っちゃいないよ」
オリヴィエは捨てゼリフを残して束ね役の手を振りほどいた。
「ペッ、二度と港に来るんじゃねぇぜ、大人しく四馬路でケツでも振ってやが……れ」
最後まで言い終わらないうちにオリヴィエは、束ね役の胸ぐらに拳を食らわせると、前に倒れ込んで来た所に蹴りを入れた。コンクリートに伏した男の腹にもう一発蹴りを入れようとしてオリヴィエは押し留まった。
「ばかやろう……ばか……やろう」
オリヴィエは呟きながら波止場を抜けて虹口の学園へと向かった。
「大人、また仕事なくなっちゃったよ……今日貰うはずの賃金で、知恵の木学園の子どもたちの給食代払ってあげるつもりだったのに。あの子たち明日から学校で給食抜きになっちゃうよ」
オリヴィエは独り言を呟く。
『だからなぁ、儂の店のモノを売れ。お前なら高値で売りさばけるぞ、きっと』
水夢大人の陽気な声がオリヴィエに聞こえる。
「なんか気が進まないけど……あんな埃くさい店……リュミエールに掃除してもらおうかなぁ……」
知恵の木学園に帰ったオリヴィエは、仕事中でいないはずのリュミエールがしょんぼりと夕飯の下ごしらえをしていたのに驚いた。
「あれ、仕事は? まだ三時だけど、具合悪くて早退した?」
「オリヴィエこそどうしたんです? 工部局で手続き済ませてから港に仕事に行くって言ってたでしょう?」
「うん……工部局に入るとこ仲間に見られてスパイだと思われてクビになっちゃった〜」
オリヴィエはわざと明るくおどけて言った。そのとたんリュミエールがワッとオリヴィエに詰め寄り泣き出した。
「な、なんなの〜苦力なんて止めろってリュミエールも言ってたじゃないの?」
「違うんです……わたくしも、わたくしも工場をクビに……」
「どうしてまた……無遅刻無欠勤で人一倍勤勉なリュミエールが何故?」
オリヴィエは解せないという様子でリュミエールの顔を覗き込んだ。
「今朝、染め物の買い付けに英吉利本土から取引先が参りまして……それで工場長が昼休みに染め付けの技術の説明がてら接待をしてくれと言うので料亭に……そうしたらばっ! 座敷の奧に赤いお布団が敷いてあってっ!」
怒りのあまりだんだんと大きくなるリュミエールの声を遮ってオリヴィエは言った。
「皆まで言わなくていいよ、相手に怪我はなかったわけ?」
「はい……打撲程度で。ですが、料亭の襖を二枚ダメにしました。相手を投げて落ちたところがたまたま池で鯉が圧死……弁償のために今月の給金も貰えずにクビに……」
オリヴィエは肩を奮わせて笑いを堪えていた。
「笑い事じゃありませんよ。もうお金が無いんですから。今までだってカツカツでしたのに、この上、わたくしと貴方の賃金まで無くなったらどうしようもありません。わたくしの体がそんなに価値のあるものでしたらば、接待の為にタダでヤられてしまうよりもいっそ街角に立ちますっ、わたくしっ!」
さめざめと泣いていたかと思うとリュミエールは握り拳を作りスックと立ち上がった。
「ま、待って〜落ち着きなってばっ〜」
「止めないで下さい、あんなに修学旅行を楽しみにしているティムカに、路銀が工面できなかったから行くなとは申せませんからね」
「リュミエール……痛いよ……」
オリヴィエは声のトーンを落とす。
「え?」
「アレってさ、すっごく痛いんだよ……あんなとこに、あんなものを入れるんだからさ」
オリヴィエは小声で囁いた。
「い、痛いんですか? 柔道の受け身で鍛えたわたくしでも?」
「受けは受けでも、ちょっち違うからね。まぁ初めての時は裂けるだろうねぇ」
「裂ける……」
リュミエールはペタンとオリヴィエの隣に座りこんだ。
「裂けてもさぁ……出るモンは出るからさぁ、なかなか治らなくてさぁ……」
「う」
「ワタシだって経験ないから詳しい事は知らないよ〜だけどね〜男娼館にいた頃に仲間の大人から聞いたんだけど〜」
オリヴィエは怯えるリュミエールを、からかうように話を続ける。
「相手がワタシとか、ん〜と梅蘭芳(注)みたいないい男とかじゃなくて、脂ぎったハゲ頭の三段腹の男だったらどうするよ? リュミエールそれでも平気?」
「ああっ、到底ダメです!」
鳥肌の立った肌を擦りながらリュミエールは叫んだ。
「だろう? ね、次の仕事が見つかるまで一緒にさ、あの店やろう。爺さんが残してくれた顧客名簿があるからさ、店の品のリストを作って回ってみようかと思うんだ。リュミエールは美術品に詳しいから助かるし……」
「貴方が貰い受けることになった骨董屋さんですか?」
「うん、とりあえず店にある品物だけでも売り払えればと思って」
「上手く行くでしょうか……」
不安げにリュミエールはオリヴィエを見た。
「どうせ貰った店なんだもん、別にこっちの腹が痛むワケでもないし、上手く一個でも売れれば港で苦力するよか、よっぽどボロい儲けだよ。ダメな時はさ、二人で街角に立てばいいじゃん。リュミエールとワタシなら男に売らなくても女に売れるかもよ」
「女性が買う……んですか? でも……あの……女性がどうやってするんでしょう??」
「アンタってば……買われた男はしてあげるんだよ〜フツーにだよフツー」
「あ! そうですね、ああ、それでしたらば、随分わたくしたちお得じゃないでしょうか? お支払いしなくてもいい上に、あの……そんな事までさせて頂いてしまって」
顔を赤らめつつ、少し嬉しそうにリュミエールは言った。
「アンタの性格、ホントッ、時々わかんないよ〜〜」
オリヴィエとリュミエールは台所の角でゲラゲラと笑い合いながら料理を始めた。
注 梅蘭芳 メイランファン (1894年〜1961年) 京劇の名女形
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