第五章 夜桜


 年が明けて一九二五年。オリヴィエとリュミエールは、細々と水夢骨董堂を経営していた。店の奧の部屋は水夢大人の生活道具がそっくりそのまま残されており、二人はだんだんと手狭になってきた知恵の木学園を出て、水夢骨董堂に引っ越した。

 早々、店にあるガラクタが売れるわけではなかったが、水夢大人の残した紹介状と顧客名簿を頼りに租界中の金持ちに挨拶に回った効果が少しづつ出ていた。
 リュミエールは自分の描いた上海の風景画を売る事を思い付き、実際それは自国に帰る際の土産物としてよく売れた。

 オリヴィエは東洋の骨董だけでなく、西洋の品にも目を付け、仕入れ先の根回しに走り回った。普通ならば新参者は立ち寄らせても貰えない租界の倶楽部にも、その容姿を武器に乗り込んで行ってはコネをつけて戻ってくるのだった。オリヴィエは昨年とは打って変わって一九二五年は輝かしい年であるような気がしていた。知恵の木学園に行った帰りには必ず水夢大人の墓に参り手を合わすのだった。

 四月某日……知恵の木学園に今月分の仕送りを渡しに行ったオリヴィエは。ふと思い立って虹口公園まで足を延ばしてみることにした。まだ桜が綺麗に咲いているようならば次の休みにリュミエールと一緒にオスカーを、花見に招待してやろうと思ったのだ。
 亜米利加人のオスカーは桜の下で飲み食いなんかしたことはないだろうと思ったのだった。日が傾きこれからが本番とばかりに桜の下には既に、出来上がった者たちが宴を繰り広げている。

「よう! 孔雀じゃないか」
 と背後から声をかけられてオリヴィエは慌てて振り返った。
「緑……」
 相変わらず上等のスーツを着て、髪をオールバックに綺麗に整えた緑が、この偶然に嬉しそうに立っていた。
「こんな処で逢うとはな。元気なようで何よりだ」
「アンタこそ虹口で何してるのさ?」
 オリヴィエは少し迷惑そうに答えた。
「付き合いってヤツだ、あそこの木の下……赤い毛氈を敷いた上で、バカ踊りしているオヤジがいるだろう……いい客なんでな。断れなかった」
「接待か……大変だね、アンタも」
 ヤレヤレというように肩をすくめた緑の姿が可笑しくてオリヴィエの心は少し解れる。

「ああ、桜は死ぬほど嫌いだからな……どうしても思い出す」
 オリヴィエの脳裏に桜の花びらの貼り付いた死体が蘇る。言葉が返せないまま俯くと緑がやけに陽気な声で言った。

「四川中路で店を持ったんだってな」
「さすが地獄耳だね……こっちも商売するようになってアンタの名前、よく聞くよ。美楽園だけじゃなくて結構まともな商売もやってるみたいだね」
「まあな……一度……店に来いよ……あのリュミエールとかいうヤツと一緒に」
「いやだ」
「嫌われてるなぁ……タダにしてやるんだぜ」

「もう嫌っちゃいないよ……アンタが人殺しでもワタシには関係ない事だし、昔の事だし。それに……アンタの気持ちもわかんないでもないから。ワタシだってあのまま幻夢楼にずっと親方の言いなりになって閉じこめられていたらどうなったかわかんないし……でもだからと言って、アンタとは友だちになれるわけないし、ましてや愛人なんか真っ平だし、できれば逢いたくないし」

「いいさ……それでもな……時々俺の事を思い出してくれれば」
「キザだね……思い出してるよ、あの時から毎年、桜を見る度に……」
「それは気の毒になぁ……池に浮かんだ死体とともにか……」

「そうだね……でもあの死体よりも強烈に思い出すのは、殺った後のアンタの顔なんだよ、凛としてて綺麗だった……あの時ね、アンタの唇に、散った桜の花びらが貼り付いててさ、それを食べたんだ……舌の先で唇の花びらを吸い取って。それから館の方に走っていった、羽根が生えてるみたいに軽やかにね……何か違う生き物を見たようで怖くて綺麗だった」
 オリヴィエが言い終わるのをじっと聞いていた緑は、溜息とともに言葉を吐き出した。

「俺が親父を殺ったのは……お前という妖魔に取り憑かれたからだと思ってるんだ……あの桜の下でふいに現れたお前はこの世のものじゃないくらい綺麗で。あんなに綺麗なモノがいるのに俺はいつまでもこんなブタ野郎に組み敷かれなきゃならん? と思うとな」

「ワタシたちは桜の精に夢を見せられたのかも知れないよ。幻夢楼を飛だした時、逃げなきゃ大人になったらワタシも親方を殺してしまうかも知れないと思ったんだもの。あのまま、無理矢理ああいうことされて亜米利加に売られてしまったら一生親方を恨みつづけなきゃなんないと……。ワタシはアンタに乗り移った桜の精に拐かされて逃げた……アンタはワタシに乗り移った桜の精に背中を押されて殺した……」

「お互い様か。でもお前は救われたな。あの幻夢楼を逃げ出した時に。俺はダメなんだ。殺った事に後悔はないんだが、それでも……春色悩人眠不得 月移花影上欄干(注)……何度もそんな夜があったさ、春は特にな、苦しかった。俺の心には一生、桜が満開なんだ……誰かが俺の心中の桜を全部散らしてくれたら……それがお前だったらなぁ……」
「アンタの秘密は共有してあげれても消してあげることはできない。ごめんね」
 オリヴィエが呟いたその時、緑を呼ぶ男の声がした。

「オーナー何してるんだ〜早くこっち来て飲みましょうや〜、芸者も来ましたぜ」
 続いて店のボーイらしい若い男も叫ぶ。
「カティス〜、誰なんだい? こっちに一緒に来て飲んでもらえば?」
 それに緑は片手をあげて答えた。

「あんた本当の名前カティスっていうの?」
「母親が付けた名前だ、忌々しい事にあのクソオヤジの付けた緑水晶の方が通りがいいんでね。商売上はそのままだが、身内にはカティスと呼ばせてる」
「そ。ワタシはアンタの身内じゃないけど、本当の名前で呼ぶよ。その代わりアンタももう二度とワタシの事、孔雀って呼ぶんじゃないよ。嫌いなんだよ、孔雀って」
「あんなに綺麗な鳥なのに?」

「知ってるよ、親方に呼んでもらったんだよ、本当にね。そしたら……羽根を広げてワタシに躙り寄って来たんだ〜う〜あの時のマジな目ったら、本当に鳥肌立つよ〜」
「あっはっはっは、そりゃいい。孔雀にまで言い寄られたのか」
「冗談じゃないよ、まったく」
 笑い続ける緑の背後からまた声がかかった。

「オーナー、その綺麗な人、儂にも紹介して下さいよ〜」
 それを聞くと緑は肩を竦めて眉間に皺を寄せた。
「馬鹿野郎、なんでお前みたいなハゲオヤジに紹介なぞするか」
 緑は小声で言うとオリヴィエの肩をポンと叩いた。

「じゃあな、オリヴィエ」
「うん。バイ、カティス」

 オリヴィエは、緑にそう言うと桜並木の中を抜けて虹口公園を後にした。枝に取り付けられた赤い雪洞が、オリヴィエの心を暖めるようにずっと、その後を見送っていた。




注 春色悩人眠不得 月移花影上欄干

  訳 春の気配が私を物思いに耽させて眠らせてくれない。
    月は映し出した花の影を欄干のところまで登らせてきたというのに。
    王安石の漢詩の一節




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