第三章 再会
一九二四年、その年の始めにオリヴィエが、上海神社で引いた神籤は【大凶】だった。ルヴァは「気にしちゃいけませんよ」とそのお神籤を小枝に結びつつオリヴィエを慰めた。
気になんかしないよー」とオリヴィエは笑ったが、年始めからオリヴィエにとって良くない事ばかりが続いた。
就職した工場を一ヶ月でクビになり、その後も幾つかの職にありついたが、どれもこれもトラブル続きで結局、辞めざるを得なかったのだ。
(ワタシが悪いんじゃない。皆、この美貌が悪いんだよ)
とオリヴィエは言い訳したが、それはあながち嘘ではなかった。工場ではことあるごとに「綺麗な顔してるだけじゃ役にたたねぇぞ」と虐められ、あげく工場長から娘を拐かしたと、因縁つけられたのだった。言い寄って来たのは工場長のお嬢様の方からなのにである。他の勤め先でも似たようなものだった。
とにかくオリヴィエにはお金が必要だった。知恵の木学園では、園長先生が他界し、その息子のルヴァが、後を継いでいたが、まだ学生の身であったし、リュミエールは大学進学を諦める事になり働いていた。ランディやゼフェルでさえ靴磨きや子守をして駄賃を稼いでいるのに、自分だけが無職である事にオリヴィエは卑屈になっていた。
他界した園長先生から絶対に行ってはならぬと言われていた繁華街の四馬路にオリヴィエが職探しに出掛けたのもそんな焦りからだった。
(別に体を売ろうと思ったわけじゃない、ボーイかなんかの職につければとりあえずそれでいいんだから。ちゃんとした仕事が見つかるまでのツナギって事で)
オリヴィエは気合いを入れ直し福州路、通称四馬路に入って行った。昼間の四馬路は危険な雰囲気はなく子どもをおぶった女や、お年寄りも歩いてる事にオリヴィエはホッとした。
通りの店のほとんどはまだ閉まっており、掃除人だけが気怠そうに窓ガラスを拭いていた。そこらあたりをふらふらと歩き回り、大世界の前に来たときだけオリヴィエは少し緊張した。妖しげにそびえ立つ塔の最上階では青幇のボスが、美女を侍らせて夜毎乱痴気騒ぎしているという噂がオリヴィエの頭を過ぎる。オリヴィエはもっとこじんまりして健康的そうな店はないか……と辺りを見回した。
大世界の先の路地を入り、またしばらく歩くと『美楽園』と書かれた店があった。オリヴィエはドアの横手の小さな張り紙に、支給係随時募集と書かれてあるのを見つけた。その店の看板が媚びた美女の絵ではなく、キチッとタキシードを着たボーイの絵だったことや、店の作りも、重厚な感じだったので、英吉利紳士の倶楽部なのかなとオリヴィエは思った。ふと、美楽園……という名前が何処かで聞いた事があるように思ったオリヴィエだったが、迷わず店のドアを開けた。
「あの、張り紙を見て……」
店中はシンと静まり返っていた。掃除夫の中國人が気怠そうにオリヴィエの声に振り返り、無言で二階を指さした。
「オーナーは上にいるって事?」
二階には同じ様なドアが十くらいあり、番号プレートが打ってあった。そんな中で突き当たりの部屋だけは他より大きなドアで、いかにもオーナーのオフィス風だったのでオリヴィエはそこをノックした。
「入れ……」
と中から声がしてその時、奇妙な感じがオリヴィエを襲ったが、彼はかまわずドアを開けた。英吉利風の部屋の造り、大きなソファに凭れているオーナーの姿が、目に入ると同時にオリヴィエはペコンとまず頭を下げた。
「表の張り紙を見まして……あの支給係に……」
オリヴィエが自分の名前を告げようと頭をあげた瞬間、本当にいきなりオリヴィエは、そのオーナーに抱きすくめられていた。 お辞儀をしたその姿勢のままで抱きしめられたオリヴィエは体勢を崩して中腰のまま、その広く逞しい胸に倒れ込むように抱かれていた。上等の背広に素晴らしくコーディネートされた色合いのネクタイが、オリヴィエの目に映るだけで身動きも出来ない。オリヴィエはただその男の腕の中にいて混乱していた。
「な?……ど、どうし……たって……う、苦しい」
「オリヴィエ……俺の孔雀だ……」
なんて甘い声でワタシを呼ぶんだろう……とオリヴィエは不覚にもその声に酔ってしまったものの、直ぐに我に返って男の顔を見上げた。
「誰? 何でワタシの名を……あ!」
「覚えていたか……随分探したぞ、お前、香港の親方の所を逃げて今までどこにいたんだ」
その男、身楽園のオーナー、緑はようやくオリヴィエを抱きしめていた手を緩めるとそう言った。それと同時にオリヴィエは慌てて後ずさり、ドアに強く背中に打ち付けてしまった。
(殺される!)
とオリヴィエはとっさに思ったのだった。あの日、池に浮いていた桜の花びらまみれになった死体がオリヴィエの心に蘇る。
(ああ、でも緑は知らないんだった……ワタシが見てたこと……)
少し冷静になると、今度は香港の親方の所に連れ戻される恐怖がオリヴィエを襲う。
(頼まなきゃ、香港の親方に知らせないでくれって……)
「何をそんなに怯えてるんだ? 香港の親方に知らせると思ったのか? そんな事はしないさ。せっかく自分から俺の所に来てくれたんだから」
「ち、違うんだよ……あのワタシは本当に支給係の仕事が欲しくて、ここがそんな店だと思わずに……ワタシは今はちゃんと、あの……違うんだって……」
オリヴィエは上手く言えず、ただ「違う」を繰り返すしかなかった。緑はソファに座るようにオリヴィエに言うと自分も隣に座った。それが当然というようにオリヴィエの手に触れる。
「話してごらん、聞いてやるさ、何でも」
オリヴィエは緑の手を払いのけ、自分が親方の屋敷を逃げた事情や、孤児院で世話になりながら学校に行かせて貰った事や、その孤児院の為に金が欲しかった事、そして、体を売るつもりも、その趣味は絶対に無い事を強調し、なんとか説明を終えた。
「俺は神に感謝したい気持ちでいっぱいだね……俺の孔雀がキレイなままだったなんてな」
その意味ありげなキレイという言葉にオリヴィエは、引っかかりながらやっとの事で緑の目を見つめて言い返した。
「何度も言うけど、ワタシは普通なんだよ。男を抱きたいとも抱かれたいとも思わないんだ。親方に知らせるならばそうすればいい。死んだって香港になんか帰るもんか」
それだけ言い捨てるとオリヴィエは立ち上がった。
「支給の仕事、ここですればいい、お前を男娼として店に出すつもりは無い」
オリヴィエの背中に緑が言った。
「アンタの目はワタシを欲しがってる。自分のモノにしたいんだろう。そんなとこで働くバカがどこにいるよ、他の店を当たるよ、悪かったね、時間取らせて」
オリヴィエは振り返らずにそう言うとドアを開けて部屋を出た。
「四馬路のどこにもお前を雇う店は無い、南京路でも。上海中、どこにも。まっとうな支給係の仕事はもうお前にはできない、この美楽園以外ではできない、俺はお前を逃がさない」
ドア越しに緑の叫ぶ声がした。
緑の言った事は本当だった。オリヴィエが仕事を見つけても二、三日すればクビになった。皆、一様に「申し訳ないけどね……」と前置きして解雇の話を切り出した。
「アンタ美楽園で何をしたんだ? あのオーナーは青幇や役人たちとも付き合いがあるし四馬路じゃ顔役だ。雇うなと言われれば逆らえない。気の毒だと思うが、娯楽施設なんかではもうアンタを雇う店はどこもないと思うよ……」
オリヴィエは美楽園という店の上海歓楽街での地位を思い知る事になった。
緑に再会してから、忘れかけていた記憶が、鮮やかにオリヴィエの中に蘇る。時折、桜を見た時にだけ思い出していたあの日の出来事が。
『お前のために美楽園を上海随一のキャバレーに…………』
(確かにそうなったみたいだよ、アンタの愛人は酷いヤツだね……)
オリヴィエは殺された前のオーナー昌のセリフを思いだし毒づいた。
結局、オリヴィエはボーイになるのはあきらめ外灘で、苦力の仕事にありついた。給金はボーイより遥かに安く仕事はきつい。外国船から荷揚げされた品物を指定の場所に運ぶ仕事で、仏蘭西語が読めるというので通訳方々、雇ってもらえたのだった。荷札についている配送先を読んで、荷物を振り分けるのがオリヴィエの仕事だった。
「馬鹿野郎! 一個づつ運んでんじゃねぇ、二個づつ持って行きやがれ! 字が読めるからっていい気になんなよ!」
容赦ない他の苦力たちの怒鳴り声が、ガンガン響く中で汗と塵にまみれてオリヴィエは働いた。さすがの緑もオリヴィエが、苦力をしてるとは思いもしなかったのか、ここでの仕事をクビになることは無かった。苦力をし出して一ヶ月、オリヴィエの外見は、以前と比べモノにならないくらいに汚くなってしまった。
(いいんだよ、ちょっちくらい汚くなった方がさ。綺麗すぎるのも生き辛いから……)
オリヴィエは自分を慰めながら毎日、荷物を運び続けた。
その日は嫌な雨が朝から降っていた。もうすぐ七月だというのに、やけに冷たい雨が上海を濡らす。それでも港に船は着く。苦力たちはずぶぬれになりながら、ひたすら積み荷を運び続けなくてはいけない。倒れれば誰かが代わりに仕事にありつき、次の空きが来るまで干される。オリヴィエも雨に打たれながら荷物を運んだ。オリヴィエがいつも作業に取り掛かる波止場の桟橋の近くに、ふと見ると緑が立っていた。流行のトレンチコートの襟を立て、上等そうな木彫りを施した柄のついた傘を持って緑はオリヴィエに近づいてきた。
「よく続いたな半年も……こんな仕事……」
緑はオリヴィエが持ち上げようした木箱の上に足を乗せて言った。
「知ってたんだね、ここで働いているって……」
「ああ。お前の行動は報告するように部下に言ってあるんでね。もうそろそろいいじゃないか、俺の元に来ても。こんなに汚れて……」
緑は濡れたオリヴィエの髪を撫でる。その手を思いっきり振り払うと、オリヴィエは声を他の苦力の手前、押し殺して言った。
「ずっとワタシの事を調べさせてたんなら判っただろう、ワタシが真っ当に生きてるってさ」
「そうかな……」
「どういう意味だよ?」
「お前には恋人がいるだろう……青みかがった銀色の髪の綺麗な……」
「バカバカしい。リュミエールはただの友だちだよ。一緒の孤児院で育っただけの! アンタと一緒にするんじゃないよ」
「俺には隠さなくていいさ。判るんだよ、お前も俺と一緒の血が流れているからな……同じ属性ってヤツだ……認めたくないのは判る。だが、しかし、好きだろう、あのリュミエールとかいうヤツを。抱いてもいい……と思うだろう?」
緑は無表情でオリヴィエを見つめてそう言った。
(確かにリュミエールは好きさ、そんな事は絶対ないと思うけど、もしも、リュミエールが抱いて欲しいと言ったら……きっと抱いてあげられると思うけれど……それってやっばり普通じゃないの……かな)
少し動揺するオリヴィエの心を見透かしたように緑は言葉を続ける。
「普通はそんな事、思いもしないもんさ。だからなぁ、意固地にならないで俺の元に来いよ。近朱者赤、近墨者黒(注)と言うだろう。俺の元にいれば、案外上手く行くと思うぜ」
「アンタの事は好きになれない……だからアンタのとこには行けない。嫌いなんだよ、悪いけど」
「ハッキリ言ってくれるな……三日待つ、必ず俺の所に来い」
緑はそう言い捨てオリヴィエに背を向けた。
それから三日たっても雨は降り続けていた。四日目の朝も雨。いつものように波止場に、行くと苦力の束ね役の親方が「すまんがもう来なくていい……」とオリヴィエに言った。
オリヴィエは理由は聞かずに、ただ荷物を結わえる縄を地面に叩き付けると外灘を出た。
美楽園に乗り込んでやろうと、四馬路に向かう途中、激しくなった雨にオリヴィエの気力は削がれ、その頃、荷物の搬入で出入りしていた近くの骨董屋で雨宿りさせて貰うことにした。骨董屋の店主は茉莉花茶と心に浸みる言葉でオリヴィエを慰めてくれた。
ようやく雨が小降りになってオリヴィエは骨董屋を出た。四馬路の美楽園に向かって一気に走り、店に辿り着くとそのドアを乱暴に蹴り開けた。使用人とその側にいて金勘定をしていた緑がとっさに振り向いた。
「緑……」
オリヴィエは息を切らしながら緑を睨み付ける。
「ちょっと表に出てろ」
と緑は横にいた使用人に命令すると、手元の札束を金庫に仕舞い、棚からブランデーの瓶を取り出すと嬉しそうに言った。
「お前も飲むかな? 苦力風情では一生飲めない上等の酒だぜ。おっと、もう苦力ではなかったかな」
「取引をしよう……」
「いいだろう、給金の事か? 欲しいだけやってもいい。車もやろうか」
「もうワタシにかまわない事。でないとあの事を言う……」
ピクッと緑の眉が動き、笑っていた目が変わる。
「あの事だと? 何だ?」
「大きな声では言えない事があるだろう。ワタシはあの朝、見た……これだけで判るだろ」
緑はそれを聞くと俯いてブランデーグラスの中の液体を眺めるように放心していたが、やがて呟くように言った。
「だからどうしたというんだ……証拠はない、あれは事故だったことになってる」
「そうさ。でも、この事をワタシが香港の親方にチクったらどうなる? 親方はアンタが殺したオーナーとは義兄弟だったはず。 それも青幇という絆で結ばれた仲だろう? アンタはオーナーを殺しただけでなく、親方も騙したワケだからね。連中、こういう義理人情を無視したやり方には黙っちゃいないよね、たとえ十年以上経ってても」
「香港の幻夢楼にもう一度行けるのか? 逃げてきたくせに。お前も酷い仕打ちを受けるぞ」
あざ笑うように緑はオリヴィエを見た。
「ふん、アンタにそそのかされたと言うよ。まだワタシは当時、十かそこらの子どもだったしね、人殺しのお兄さんに逆らうのが怖かったと親方に泣いて訴えてやるよ。今になって戻ってきたのは、そうだね……記憶喪失にでもなってたとか言うかな、ははは」
「そんな臭い芝居を誰か信じるものか……」
「信じるさ……幻夢楼の親方にとってワタシはそれだけの価値があるはずだもの」
緑は立ち上がってオリヴィエの汚れたシャツの襟を掴んだ。
「お前も殺してやろうか?」
「出来ないよ……そんな事。ほら、勿体ないと思わない?」
今にも首を絞められそうになり、内心では震えながらもオリヴィエはニッコリ笑ってみせた。
「抱いてから殺す手もある」
「バカだね、ワタシを一度でも抱いたら、尚更、勿体なくて殺せやしないよ。それに……無理矢理だなんてアンタはそんな事しないよね。前のオーナーと同じ事、アンタがするなんて思えないよ」
緑は大きな溜息をついて目を伏せるとオリヴィエを掴んでいた手を乱暴に離し、オリヴィエに背を向けてカウンター席に座った。
「ああ……お前は悪いヤツだな……」
「うん……」
「もういい、勝手にしろ。苦力の仕事に戻れるようにしてやろうか? その気ならちゃんとした支給係を紹介しても……」
緑はオリヴィエに背を向けたまま、ふてくされたように言い放った。
「苦力は……もういいよ。アンタへの意地もあってやってたけど、実際ワタシにはキツすぎ。支給係もいらない。自分でなんとか仕事は探すから。邪魔さえしないでくれたらいい」
「なぁ。時々はここに来いよ……酒でも飲みに。奢ってやるから」
「もう来ないよ……」
オリヴィエは緑の背中にそう言うと、綺麗に磨かれた金色のドアノブに手を掛けて重い木のドアを開けた。
「オリヴィエ……何故、俺が殺ったとあの時に親方や検察に来た警察に言わなかったんだ?」
緑は出ていこうとするオリヴィエに名残惜しそうに尋ねた。
「あんな格好いいお兄さんが殺すんだから、あのオーナーはよっぽど悪い人なんだと思ったんだよ。ワタシも愛人になるんだったら親方みたいな太った中國人じゃなくて、どうせならアンタみたいな人のがいいや……と思った。子どもって見た目に惑わされやすいんだよね。でも……アンタはそんなに悪い人じゃないと思うんだ」
「くそ!」
緑はブランデーグラスをオリヴィエに向かって投げつけたが、扉は閉まった後だった。
注 近朱者赤、近墨者黒
朱に交われば赤くなる、と同意味。
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