第二章  美梦

 西洋東洋を問わず集められた調度品と、天蓋つきのひときわ豪華な寝台が、その部屋を俗世から切り離すように、幻夢楼の奧にひっそりと設えてあった。
 幻夢楼のオーナーが特別室として作らせた、客を取るための部屋であったが、そこはオリヴィエがこの館に連れて来られたその日から彼のものとなった。

 その部屋には小さな覗き窓があり、そこからは二匹の金龍が、瑠璃と珊瑚の玉を口にくわえて絡み合う装飾が施された朱塗りの寝台に、真紅の絹のガウンを着て眠るオリヴィエの姿を見ることができた。

 その寝姿を垣間見るために男色家たちが支払う金額は、並の男娼を買うための金額と同じだった。十歳になるまでオリヴィエはこうして毎夜のようにして、寝姿だけを売り続けたのである。

 ある暑い夜だった。九月に入ってようやく爽やかな風も吹き始めたが、その日は八月初めのような蒸し暑い夜だった。ドタドタという音がし、周の怒鳴り声がした。オリヴィエは丁度ウトウトとし始めた時で、(親方がどっかから帰ってきたんだな……)とぼんやりと思っていた。と同時に急に部屋の扉が乱暴に開いた。

「寝てるのか〜オリヴィエ? おーい」
 明らかに酔っている親方の声にオリヴィエはそしらぬ顔で寝たふりを続ける。親方はかまわずオリヴィエの横に寝ころぶとその頭を愛おしそうに撫でた。
「ついにお前と別れにゃならん時が来たなぁ……」
 周の呟きにオリヴィエは思わず目を開けた。
「どうして?」
「なんだ起きてたのか? 買い手が付いたんだ、まだもう少し大きくなるまでと言ったんだがなぁ、もう待てないんだとよ」
「でもどうして親方とお別れなのさ? 皆だって買い手がいるけど、ここにいるじゃない」
「そういう買い手ではなくてな、丸ごとお買い上げなんだよ、何時でもお前を抱けるようにな。近いウチに本国にお帰りになるようだから一緒に連れていくつもりらしい」
「本国ってどこ? 仏蘭西?」
「いいや、亜米利加だ」
「亜米利加! いやだよ……」

 オリヴィエは本当の両親がいるらしい仏蘭西という所に行ってみたいと思っていた。亜米利加はとてつもなく遠い国でそこに行ってしまえば、もう二度と仏蘭西には行けないと子ども心にはそう感じたのだった。

「オリヴィエ……」
 ふいに周の手がオリヴィエの腰にかかった。
(最近、酔うと親方はワタシの体によく触る……)とオリヴィエは思いながらじっとしていた。大抵はそうやってあちらこちら撫でているうちに酔いが回って鼾をかきながら寝入ってしまう。が、周は寝入る気配もなく荒い息をたててオリヴィエの真紅のガウンの紐を解いた。

(いつもと違う!)
 オリヴィエは周をはね退けて壁際に逃げる。
「オリヴィエ、お前はいい金蔓になると思って拾ったんだが、儂はお前が好きだったさ、五つの時から五年……寝姿だけで十分金儲けはさせて貰ったが、儂は本当の息子のようにお前が可愛かった。いや……綺麗事は言うまい。儂はお前に惚れているんだ。もうあと五年もすればどんなに綺麗な男になるだろう……」
 周は泣き顔になりながら呟く。

「じゃあ断ってよ、ワタシは亜米利加なんか行きたくない」
「今までだって普通の客なんざ相手にしなかったが、あの亜米利加人には逆らえないんだ。いろいろと大人の世界には事情ってもんがあるんだ……あの男に売る前に儂が教えてやるよ……こっちに来い」
「いや……いやだっ」
 捕まれた腕を振りほどこうとしたオリヴィエの手が周の顔面に当たる。
「痛っ。くそっ、言うことを聞け!」
 暴れるオリヴィエの頬に周は平手打ちを食らわせた。今までどんな事があっても顔だけは殴らなかった周の態度にオリヴィエは恐怖を覚えた。殴られたショックでグッタリしたオリヴィエに、周は馬乗りになり、ガウンの袖を乱暴に引き裂いた。物音に気づいた隣室の娼夫のたちが駆けつけ思わず止めに入った。

「やめなよ、親方。オリヴィエはまだ十なんだぜ。」
「うるせぇ! てめぇらだってオリヴィエだけ特別扱いすると愚痴ってたじゃねぇか? それとも何か? お前らもコイツに惑わされてンのか? たった十の子どもによう? コイツはまだ今夜は儂のもんなんだ、好きにしてどこが悪い?」
 周はまだオリヴィエの上に覆い被さりながら叫んだ。

「親方……あんた阿片やってるね?」
 ふと漏れた甘酸っぱい匂いに反応して娼夫の一人が眉間に皺を寄せた。
「阿片は売るもので買っちゃならないって言ってたのに……阿片にまで手を出すなんてどうしたのさ、阿片に手を出すほどオリヴィエを売りたくないんなら売らなければいいのに」
「やかましい! 誰に指図してンだ? 黙っとけ!」
 周は寝台の側に飾ってあった壺を、その娼夫に投げつけた。壺は男の額に壺は当たり、床に落ちて砕け散った。
 
その場に伏した男はオリヴィエに向かって呻きながら言った。
「う……お逃げ、オリヴィエ。あの亜米利加人はまともじゃないんだ……本国にはマフィアの後ろ盾が付いてて、香港に流れて来たのだってあっちで相当ヤバイ事してたらしいよ……アンタはこんなとこにいちゃいけない子なんだ……ちゃんと貴族のパパを探して王子様にならなき…ゃ」
「!」
 それを聞いたオリヴィエは声にならない叫びを上げて精一杯、周を突き飛ばすと、開け放たれた窓から子猫のように飛び出し、裸足のまま広い館の庭を門に向かってひた走った。
 五年の間、ただ一歩も出ることのなかった鉄門によじ登り、それを越えた。館の外に待っているのは闇ばかり。真っ暗な街道をひた走る。途中で周の車がオリヴィエを追って走ってゆくのを、彼は畑の中で、まんじりともせずに見送ると、そのまま畑を突き抜けてまた走った。
 夜が白々と明ける頃になって遠くで汽笛の音が聞こえたのを頼りにその方向へとヨロヨロと歩き始めた。

「火車だ!」
 ゆるゆると走ってくる貨物列車めがけてオリヴィエは走る。足は皮が剥けて血だらけになっていたが力を振り絞り走った。列車は、ほとんど止まりかけたようにゆっくりとカーブを曲がる。家畜専用の粗末な貨車に飛び移ると、干し草の上にその身を隠して死んだように眠り続けた。

 ガタンと大きく貨車が揺れ、オリヴィエは干し草の中で目を覚ました。貨車の小窓から確認するともう既に日は昇っており、どこからかぼんやりと汽笛の音が聞こえた。オリヴィエは汗を拭いながら、列車から飛び降り、汽笛の音が聞こえる方向にトボトボと歩き出す。木箱を肩に担いだ苦力たちが怒鳴り声を上げつつ、走っていく方向にただ歩く。波止場には今まで絵本でしか見たことのないような大きな船が港に泊まっていた。日傘を差したドレス姿の貴婦人たちの一行がゆったりとその船に乗り込んで行くのを見て思わずオリヴィエは側にいた苦力に尋ねた。
「あの船はどこに行くの?」
「上海さ、それから仏蘭西に戻るんだとよ」
 オリヴィエはそれを聞くと一目散にその船へと走って行った。婦人たちの合間に紛れて船へと進む。裸足の足と破れたガウンは婦人たちのドレスに紛れてハッキリとは見えない。
「あら、どうしたのその格好?」
 と隣の老婦人がオリヴィエに声をかけた。
「うっかり寝過ごしちゃってガウンのままなの。そしたら転んでしまってボロボロになっちゃったの。ママンたら自分のお衣装に手一杯で、僕のお着替えしてくれないんだもの」
 口を付いて出る仏蘭西語に自分でも驚きながらオリヴィエは、その婦人を見上げてニッコリと笑った。
「そのママンはどこ?」
 オリヴィエは辺りを見合わすと列の後尾でお喋りに花を咲かせている三人組の婦人の方を指さした。
「仕方のないママンねぇ」
「お荷物はもう船の上でしょう? 僕、先に乗って早くお着替えしたいの」
「ええ、そうねぇ、早く乗船したいわね、まったく水夫たちの手際の悪いことったら……」
 オリヴィエはこれ幸いと婦人と話しをしながら入り口に立っていた白い制服姿の乗組員に咎められることもなく、仏蘭西行きの客船に潜り込んだ。

 オリヴィエは人目の多い上部の客室を避けると、薄暗い船底に向かい、二等客室の奧の貨物室の角に居場所を見つけた。船は三日をかけてゆったりと上海に向かう。一日目は何も食べず洗面所の水だけで過ごしたオリヴィエもとうとう二日目に我慢しきれなくなり、ついに食べ物を求めて上の階へと這いだした。豪華なホールに備えてあった籠の中の果物を持てるだけ盗ると再び船底に隠れ、ただひたすら船が、上海に着くのを待った。三日目の午後になってそれまであまり人気のなかった貨物室にも動きが出てきた。人の気配が途切れたところでそっと抜け出すとオリヴィエは甲板に向かった。既に船は黄浦江に入っており、対岸には洒落た洋風の建物が微かに見えた。船の中の多くの仏蘭西人たちは上海で、次の出航までの日々を楽しむらしく手荷物を片手に下船の準備を始めていた。

 船に乗る時に自分の横にいた老婦人もスーツケースを持って下船の順番を待っていた。それを見つけるとオリヴィエは彼女の側に近寄った。
「ボンジュール、マダム」
「あら、坊や。船の上では一度も会わなかったわね、お食事の時に逢えるかと思って探したのよ」
「僕、お腹を壊していたの、ずっとお部屋で寝ていたの」
「そうね、ここは不衛生な土地だわ、空気もよくないし、おお可哀相に。それでまだガウン姿なのね」
 老婦人は疑う様子もなくオリヴィエに言った。
「上海で降りてはいけないとママンが言うの。またお腹を壊すといけないからって。でもママンはお船を降りて行っちゃったの、僕はお留守番なの」

 オリヴィエは口から出任せを言いながら、なんとか前と同じように咎められないで船から降りる術を探っていた。
「貴方のママンには、ちょっと言わせて貰いたい事があるわ。病気の子どもを置いて自分だけ下船するなんてどうかと思いますね」
 老婦人は怒ったようにそう言った。
「あ、でもパパが待ってるから。パパは、えっと上海にお仕事でいるの。僕たちを待っててくれているんだよ」
 オリヴィエは嘘を重ねて取り繕う。
「それなら仕方の無い事かも知れないわね、でも私なら、決して坊やを一人きりにはしないわ。こんな異国の地でたとえ一時でも……」
 老婦人の言葉を遮ってオリヴィエは叫んだ。
「でもママンはすぐに帰ってくるんだから!」
 老婦人から目を反らしたその向こう、外灘の風景が記憶の奥底に眠っていたオリヴィエの過去を引き出した。

(オリヴィエ、伯爵が今度、本国にお戻りになる事になってね、五年間の上海暮らしもお終いになさるんだよ。でもアンタは連れて行けないのよ。アンタは目も髪の色も伯爵にそっくりなんだもの、奥様にバレたらママンは酷い目に遭わされるからね。お屋敷の女中の職を失ったらママンは娼婦にでもなるしかないんだよ。伯爵だって養子なんだから奥様には逆らえないし。大丈夫だってば、アンタは可愛いから、きっといい家に貰ってもらえるからさ)
 自分を捨てた母親の最後の姿が心に蘇った。

「ママン……」
 オリヴィエは急に悲しくなり、声をあげて泣いた。
「やっぱり寂しかったのね。坊や、ママンのお名前は? パパはとこかのホテルにお泊まりになっているんでしょう、どこか判る? 私が見つけてすぐに船に戻るように言ってあげるわ。坊や、お名前は? 客室まで一緒に戻ってあげるから、泣かないで」
 老婦人は泣き出したオリヴィエの前にしゃがみ込んで尋ねた。

「マダム、どうかなさいましたか?」
 その様子に乗組員が駆け寄った。
「この子の客室はわかるかしら? 連れていって何か甘い飲み物でもあげたいの。親御さんはもう下船なさったようなのよ」
「さようで。坊や、部屋の番号は判るかい? お名前は?」
 老婦人と乗組員はオリヴィエの顔を覗き込んで再度、尋ねた。
「ノン……対不起(ごめんなさい)」
 泣きながらオリヴィエは老婦人を押し退けると、下船の順番を待っている客の間をすり抜けて波止場へと逃げた。

「誰かその子を止めて!」
「一人で街に出ちゃいけないんだ! 坊や!」
 二人の叫ぶ声が聞こえなくなるまで、オリヴィエはまっすぐに桟橋を走ると後は、もう行く宛もなく裏外灘のビルの日陰に座り込んで日が暮れるのを待った。
              
 上海に辿り着いたオリヴィエが、最初にした事は、どこかの家の窓から突き出た物干し竿の洗濯物から自分に合う大きさの服を盗む事だった。破れたガウン姿では目立ち過ぎるし、日中の日差しはまだ真夏のような照り返しだが朝晩には、時折涼しい風も吹く。オリヴィエは失敬した衣類を恐る恐る身につけた。大きさはちょうど良いが、洗い立ての綿のガサガサした感触にオリヴィエは惨めな気持ちになった。

(こんな目の粗い布はイモの放り込んである野菜袋でしか見たことない……)
 その次は靴を盗んだ。これは店先から隙を見て盗んだ新品だったが、ペラペラのゴム底、何の飾りもない黒い布のそれを見るとオリヴィエは干からびたネズミの死骸の様だと思った。

 身に付けるものを揃えると後は、自分と同じように裏通りの軒下で寝起きしている少年に近づき仲間に入れてもらった。仲間に入るために課された一元を稼ぐためにオリヴィエは初めて路上に頭を擦りつけ物乞いをした。
 こうして上海にオリヴィエが辿り着いてから三ヶ月が過ぎた。裏通りにたむろしていた年長の少年の言われるままに掻払いや靴磨きをし、日々を生き延びた。

 日銭が稼げないと年上の者に殴られる事もあったが、同じ親に捨てられた者同士、結構快適な日々が続いていたある日、リーダー格の少年が身なりのいい中國人の男を連れてやって来た。
「ほう、こりゃ上玉だ……」
 とその男はオリヴィエを一目見るなりそう言った。親方と同じような、あの品定めをする時の目がオリヴィエを舐める。
「五十元でどうだ?」
「ご、五十元かよ……」

 大した金額ではなかったが、路上に暮らす者にとっては大金である。少年の声が思わず上擦った。男は懐から財布を取り出し札を数える。その間にオリヴィエは、思いっきり男に体当たりして通りに逃げ出した。男の手から札がこぼれ落ちる。慌ててそれをかき集めようと少年たちが、男の足下にしゃがみ込んだ。

「バカ! 誰か追いかけろっ、早くしろっ」
 男の叫び声が聞こえる中、オリヴィエは外灘の人混みに紛れて走り続けた。オリヴィエは外灘から白渡橋を渡り、蘇州河の北に出てようやく走るのを止めた。
 虹口地区と呼ばれたそこは共同租界の中にあっても日本人居住者の多い街だった。虹口大市場の前まで辿り着いた時、オリヴィエは空腹で倒れそうになっていた。夕べは残飯にもありつけなかったのだ。十二月に入ると誰しもコートを着込むので、財布をズボンや上着のポケットから失敬しにくくなるし、靴磨きの客もめっきり減ってしまう。昨日は日銭が稼げず食べ物の分け前は無かったのだ。

 上海一の大市場から漂ってくる食べ物の匂いに目眩すら感じながら人混みを避けてオリヴィエは裏通りに入り、どこか休めるところがないか探した。同じような里弄(リーロン/注)が続き、その前に穿たれた煉瓦造りの門が余所者が入ることを拒んでいた。

 少し広い通りに出てしばらく行くと庭に蜜柑の木がある建物に出くわした。そこだけ日溜まりのような橙色の蜜柑を前にオリヴィエは夢中でその木によじ登った。ほんの少し手を伸ばせば蜜柑が取れるという高さまで登って初めてオリヴィエは、自分が足場にしている枝がそれほど丈夫ではないのだということに気づいた。ミシッという音に思わず、枝に絡みつくように身を竦めた。下に降りたいが少しでも動けば枝は折れてしまいそうである。
 とその時、数人の子どもたちが木の下で騒ぎ始めた。

「見て! 誰か蜜柑を盗ろうとしてる」
「本当だ、あっ、猿だよ、ほらっ、毛が金色してるよ」
 口々に子どもたちは叫び、落ちていた小石をオリヴィエに向かって投げ始めた。
「や、やめて」
 とオリヴィエは呟くが、騒ぎ立てている小さな子どもたちの耳には届かない。
「お止しなさい! 可哀相でしょう。誰か園長先生を呼んでいらっしゃい」
 という声がしてふとみると青銀色の髪に自分と同じ青い色の瞳の少年がこちらを見上げて立っている。その少年はオリヴィエが西洋人だと気づくと何かを言った。英語らしいとしかオリヴィエにはわからない。オリヴィエが何も答えないのを見ると、彼は、「もう大丈夫。そのままじっとしていて下さいね。すぐに園長先生がいらして下さるから」と今度は仏蘭西語でそう言った。オリヴィエは頷くとその少年の優しげな顔を見続けた。

「あなたのお名前は? わたくしはリュミエール」
「女の子なの?」
 オリヴィエはその子の柔らかな声に女の子かもと戸惑いながら尋ねた。
「いいえ、男ですよ、あなたは随分髪が長いけれど男の子?」
「うん、男だよ、オリヴィエっていうの」
「仏蘭西人なんですか? 仏蘭西租界からいらしたの?」
「うん仏蘭西人なの、だけどママンはいないの」
「わたくしもですよ、ふふふ、わたくしたちって何だかよく似ていますね、お友だちになりましょうね」

 リュミエールはにっこりとオリヴィエに笑いかけた。優しい仏蘭西語の響きとともにその笑顔がオリヴィエの心の中にじんわりと暖かく広がっていった。



注 里弄(リーロン)
  道路に面したところに小さな門があり、その奥が狭い路地になっている。
  路地を挟んで煉瓦つくりの長屋があり、何世帯もが住む集合住宅になっている。


次頁