水夢骨董堂細腕繁盛記外伝 花 影 追 憶



第一章 緑水晶


 幻夢楼と名付けられたその白亜の館は、高い塀で囲まれていた。鉄の門からは季節に合わせた花々が見事に咲き誇る花壇が見られたが、それはこの館のほんの一角でしかなかった。鉄門を通ってすぐにある白亜の館も一般の客の為のサロンにしかすぎない。
 その館の倍ほどもある中庭には椿や芍薬、薔薇、牡丹とおおよそ考え得る大輪の花々が咲き乱れ、とりわけ多種に渡る椿が見事であった。
 そしてその中庭を抜けた所にある別館こそが、幻夢楼の核なのだった。美しく設えられた部屋が十ほどあり、各々の部屋には選りすぐりの男娼が置かれ、特別な客だけが出入りする事を許されていた。さらにその別館の裏庭には桜の木に取り囲まれた小さな池までもがあった。

 緑とその養父である昌がこの幻夢楼を訪れたのは、桜の花びらが池一面を薄桃色に染め上げてしまうような四月半ばの事だった。
 幻夢楼の持ち主である周は、元上海人・青幇幹部だった男で昌とは義兄弟であった。昌は上海四馬路で美楽園という小さなキャバレーを経営していた。彼らがこの幻夢楼に来たのは、美楽園に何人かの娼夫たちをよこして貰うためだった。義兄弟たちは抱き合って再会を祝った後、商売の話をし始めた。

「パパ、俺は席をはずしてもいいかな」
 緑は退屈そうに言った。
「美楽園はいずれはお前の店になるんだ。もう十八といえばいっぱしだ、少しは聞いておけ。俺がお前の歳には、もう小さいながらも自分の店を持っていたんだぞ」
「まぁまぁいいじゃないか。あまり現実的な話を聞かせると容色の衰えが早くなると思わないか? 儂らは共に苦労し過ぎたな」
 周は笑いながら自らの白いものが混じった髪を撫で付け、昌の突き出た腹を指さした。
「義兄さんは子どもを甘やかし過ぎる、あのオリヴィエとか言う子どもには大した入れ上げぶりだと言うじゃないか?」
「それだけの金をアレは稼いでいるからな」
「義兄さんも阿漕な、まだ十になったばかりの子どもに客を取らせているのか?」
「人聞きの悪い。お前にも後で特別にオリヴィエを見せてやろう。見るだけで金を取るだけの価値があると判るだろう」
「常々、便りで自慢していたが本当にそんなに上玉なのか?」
「あれほど美しい子どもは世界に二人と居まいよ」
「大袈裟な。この緑を儂が手に入れた時もそんな事を言ってたな。あれは世辞だったか」
 昌は自慢げに、隣に座っている緑の肩をわざとらしく抱いて言った。緑はその昌の肩に無表情で抱かれていた。
「ああ、緑も整った顔をした綺麗な少年だった。だがウチのオリヴィエの美しさは別格だ。アレの記憶によると父親は仏蘭西の貴族らしい。母親は女中だったそうだがやはりこれも仏蘭西人」
「仏蘭西人か……この緑は種こそは英吉利人だが母親は中國人の娼婦、そこらあたりの差か。畑の土が悪ければ育つ花にも限度がある。はははは」
「昌、相変わらず下品な物言いだな、わっはっはっは」
 昌と周が笑い合う中、緑は席を立った。
「気を悪くしたのか? 緑?」
 周はまだ高笑いを続けている昌を窘めつつ言った。
「いいえ、伯父さん。俺は気にしちゃいませんよ、事実ですから。パパに拾われていなかったら俺はのたれ死んでいた身ですからね」
 緑は怒りを押し殺して微笑んだ。
「昌よ、確かにお前の躾けは見事なものだな。ウチのオリヴィエときたらせっかく取り寄せた織物も柄が気に食わないだの色が野暮ったいなどとほざきよる」
 それがたまらなく可愛らしいのだというように周は目を細めて言った。
「せいぜい飼い犬に手を噛まれる事の無いように」
「お互いに、な」

 
 二人が笑い合う中を緑は黙って部屋を出た。中庭を抜け裏庭に出た緑は池の辺の桜の木に凭れて、昌がポックリ逝ってはくれまいか、いっそどうにかして……とまだ醒めやらぬ怒りに震えて考えていた。そんな彼の思いをかき消すような優しい小さな声が緑の背後でした。
「ノンホー(こんにちは)……」
 緑が振り向くとそこに子どもが立っていた。少年なのか少女なのか、いや、それ以前に人なのか妖精なのか妖魔なのか……と緑は思いながらそのままその子どもの顔を凍てつくように眺めた。
 どうやらこれは人間の少年らしいと緑は思うと、今度はその全体をひとつひとつ確認しながら見た。
 少年は紫地に金糸銀糸で刺された蘭の模様の衣装を着ており、襟元の狭い縁取りにさえも細かな蝶の刺繍が施されている見事な長衣を着ていた。形のいい小さな耳には既に穴が開けられており、その唇の色を写し取ったような紅い石がぶら下がっていた。 この時代にあっては皇帝さえも適わぬほどの贅を凝らした衣装や装飾品を当然とばかりにその小さな体は受け止めて悠然とそこに存在していた。

「オリヴィエだな? さっき伯父さんがお前の自慢をしていたぜ。上海語が出来るのかい?」
 緑はオリヴィエの顔を覗き込むように背を丸めて言った。
「親方はウチではほとんど上海語なの、だからアタシたちも皆、上海語なんだよ」
 その堂々たる美貌とは不釣り合いな妙な言葉使いを聞くと緑は吹き出しそうになった。
(コイツの教育係の人選を間違ったんだな……まぁ、早期教育ってヤツか……)
「知ってるよ、ウチのオヤジから聞かされてたからな。俺は……本当の名前は別にあるんだが緑水晶って呼ばれてる、緑と呼んでくれていい」
「目の色が緑だからだね」
「俺の目は緑色じゃあないぜ」
「ううん、緑色に見えるよ。光のせいかな……」
「アタリだ。俺にはわからんが光の角度によって緑色に見えるんだとよ。それでオヤジが勝手にそう呼び出したんだ。ところで……お前、孔雀を見たことあるか?」
 緑はオリヴィエに唐突に尋ねた。
「ないよ。孔雀って織物に描かれてるのを見たことがあるけど。本当にいるの?」
「ああ、綺麗な鳥だ。初めて見た時にこんな生き物がいるのかと思った。お前に似てるよ」
「今度、親方に呼んでもらうよ」
「呼んでもらう?」
「うん、ワタシが見たいものはなんでも、ここに呼び寄せてくれるんだって」
「ふん。でも今度は俺と見に行かないか? この塀の向こうには楽しい事がいっぱいあるぜ。一緒に行かないか……俺と」
 そう言うと緑は悪戯心を起こしオリヴィエに手を延ばした。
 触れる事も躊躇われるようなツンと細い鼻先から白い頬を人差し指でなぞり項まで辿り着くと、一気に緑はオリヴィエを抱きすくめた。オリヴィエの小さな頭はすっぽりと緑の胸の中に収まった。
「よ、よしてよ、はなして。貴方のお父さんに叱られるよ、あの……愛人なんでしょ」
「ぼうやのくせによく判ってるな」
「見ればわかるよ。貴方のお父さんは中國人だけど貴方は西洋人みたいな感じだし」
 緑の肌の色は東洋人のそれだが、髪の色は薄い金色だった。
「そうお前と同じ、小さい頃に拾われたのさ。愛人が何をするか教えてやろうか? それとももう知っているのか?」
 緑は冗談のつもりでオリヴィエをさらに強く抱きしめた。けれどもなんとも言えない感触が彼を襲う。いつも養父に組み敷かれるだけの体がその時、何か別の方向に向かって目覚めてしまったのを彼は感じた。と、その時。

「緑! 何をしているっ! それに手を出すな」
 遠くから息を切らして走って来たのは昌だった。緑の側までやってくると、傍らのオリヴィエを見て息を飲んだ後、ハッと我に返り、緑の頬をピシッと殴りつけた。
「ふん、からかってただけさ。こんな子どもで俺が満足できるはずないだろう? 妬いてるのか?」
 と緑はヘラヘラと笑いながら嘯く。
「ソイツは兄貴が手塩にかけて育ててるんだ、ヘタに手を出すと殺されるぞ。わかったか? 欲しかったら、ソイツが店に出てから買いに来い。もっとも儂の生きてるうちはお前の勝手にはさせんぞ……来い、兄貴が祝宴を開いてくれるそうだ」
「わかったよ……チッ」
 緑は渋々、養父に付いて館に戻った。オリヴィエはその様子をただ黙って見ていた。


 翌朝、一番鶏が朝を告げた頃、寝返りを打った緑に、昌は酒の臭い息を喘がせながら覆い被さってきた。
「よせよ、もう朝じゃないか。それに余所の館で」
 緑は昌を振り払う。もう随分前から、緑はこの男の言いなりになる事にウンザリしていた。
(オヤジが酒と阿片に手を出す前は、初めて組み敷かれた情というものも少しは残っていたかもしれない、最近のオヤジの自堕落な容姿ときたら、醜い以外の何者でもなく突き出た腹には色香のカケラも無い、酔う度にクドクドと自分本位な説教を垂れるのもうっとおしい)
 と緑は心の中で毒づいていた。

「かまうものか……ここは男娼館なんだからな」
「イヤなんだよ、ここの雰囲気も好きじゃない」
 緑は養父を押し退けるとガウンを引っかけて、庭に続くドアを開け放ち、部屋を出た。ひんやりと冷たい朝靄の中を適当に歩きながら池の辺まで辿りつくと、後ろから緑を追ってきた昌に腕を捕まれた。
「何の為に香港まで来たと思うのだ? 兄貴の店の娼夫どもの中には、上海にあるウチの店に来たがってる連中も多い。この商談がまとまればウチにも新しいヤツが入って名実ともに上海随一のキャバレーになるんだ」
「キャバレーだって? やってることは安売春宿と一緒じゃないか、オソマツなショーだけで、実は二階で客を取らせてるんだから」
「今はまだそうだが、後を継ぐお前の為にもこれから店の格をあげなきゃならんと思っているんだぞ。可愛い緑……なぁ」
 養父の手が緑の腰に絡みついた。思わず彼の背中に走る嫌悪感。
「酒臭いよ、パパ。それに昨日、風呂に入らなかったろう、油臭い……」
 緑は露骨に嫌な顔をして、その手を払い除けた。

「何だと! 最近お前は偉そうだな、それに儂の事を嫌っているようだ。誰がお前をここまで育ててやった? 娼婦だったお前の母親は家賃を払えずに大家だった儂に体で払いに来よったぞ、だが生憎、儂は女はいらんのでな、代わりにお前をくれと言ったら本当にくれよった」
「嘘をつけ! 俺は知ってるぞ。駆け落ちするようにママをそそのかしたのはお前だろう。船代は出してやる、息子がいては足手まといだろう、儂が引き取って育ててやろうと持ちかけたんだろう。お前がそう言って誰かと話してるのを俺は聴いたぜ」
「盗み聞きをするとは鞭打ちに値するぞ、緑。それにどの道、お前の母親はお前を捨てたことに違いないんだ、息子よか男を選んだんだからな、淫売女に違いなかろう」
「お袋の悪口は聞き飽きたぜ……俺を育ててくれてありがとうよ、自分の娼夫にな」
 緑は低い声で唸るように言うと養父の太った体の背後に回り込んだ。そして背後からその口を塞ぐと、決してその手を放そうとしなかった。

 体重こそかなりの差があるものの、身長では緑の方が頭ひとつ分は高い。もがき苦しむ昌の手の力が少し抜けたところで、彼はそのまま昌の顔を池の水の中に突っ込んだ。苦しさのあまり顔をなんとか上げようとする昌の後頭部を、側にあった石で打ち付けると首筋を掴んでさらに深く頭を水面に押し込んだ。しばらくするとそれはピクリとも動かなくなった。緑は水面に浸かったままの頭を手放すと、今度はその体を池の中に蹴り落とした。
 散った桜の花びらが水面でゆらぎ、死者を弔うように昌の体に貼り付いて行く様を緑は、見届けるとゆっくりと振り向いた。

(パパは最近、酒や食べ物を控えるように医者から言われていた、でも昨日はせっかくの祝宴だからと調子に乗って……、明け方、気分が悪いから風に当たってくると出ていったきり遅いので見に行ったら池で……。きっとふらついて足を滑らせて……俺がもっと注意しておけば……)
 ひとつ大きく深呼吸すると、緑は館に向かって全速力で走った。これから一生を賭けてつき通す嘘を呟きながら。桜の木陰に立ち尽くす小さな影に気づく由もなく、緑は走った。

 それから十年以上が経ち、あれは事故と処理されて、緑は美楽園と自由を手に入れた。もう誰に組み敷かれる事もない。美楽園は昌が夢見た通り上海・四馬路では名の売れた高級なキャバレーになった。ただし依然として二階は男娼館のままだったが。養父を殺った事への良心の呵責は緑にはない。あの日以来、過去とは決別すると心に決めた緑だったが、オリヴィエの事だけは忘れられなかった。

 あの少年がやがて辿り着くであろう人の美という頂きを思うと緑の胸は高鳴った。緑が、次の年に供養と称して香港の幻夢楼を訪れた時には、オリヴィエはもういなかった。
 緑は毎年正月になると、店の発財と共に、どうかあの孔雀をもう一度見せてくれと……と祈り続けていた。
 


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