思考を追い越して、俺の五感はいきなり戦闘態勢に入る。全身の血がゾワゾワと音をたてて流れてゆくような感覚におののきながら俺は立ち尽くす。
男はもう片方の目で不自由そうに俺をチラッと見ると「お客さん、すぐに入れ替えさせますから店でお待ちを」と流暢な上海語で言った。俺はその男をじっと見つめて呟いた。「何故なんだ……? 何故、アンタはここに隠れているんだ?」
俺の呟きに、男……立木の手が微かに動いた。テーブルの下に隠し持っていたのだろう、銃のセーフティロックを外す微かな音がした。俺の手も咄嗟に懐に入った銃を掴んでいた。
俺たちの緊張を崩すように娘は俺を睨み付けながら、水の入ったグラスをガチャンとテーブルの上に置いた。
「安寿、店に行ってなさい」
と立木は座ったまま娘を見ずに言った。
「でも……」
安寿と呼ばれた娘は躊躇う。
「大丈夫……お前を残して死にはしないよ」
ようやく俺から目を逸らした立木は今度は安寿に微笑みかける。
「はい」
安寿は、そう答えると、俺をずっと見据えながら扉の向こうに消えた。立木の言った言葉に俺は胸を突かれていた。(この切なさは何なんだ……タチキのあの甘い言葉は何なんだ……)
「俺の事を知っているようだが、誰なんだ?」
立木はポツリと言った。
「俺は探偵だ。あんたを探していた日本人の探偵と堯という俺の恩人が殺された。俺も誰かに付けられているらしい。俺はあんたが何者で、どうして堯や俺が殺されなきゃならん のかが知りたいだけだ」
俺はそう言うと、事の経緯を手短に立木に話した。
「そうか……迷惑をかけてしまったんだな……。俺は……この間まで陸軍の中尉だったんだ……」
立木は辛そうに話し出した。「一年前に、俺は特別な任務を負って内地から上海に来た。中國を日本國の支配下に置くための工作……とだけ言っておこう。お國の為だけではなくそれが、この中國という國の為であると信じていた。この國は困窮に貧しているし、指導者とて定まらぬ、隣國である日本國が中國を納めれば何もかもが上手くゆくではないか……と」
「なんて自分勝手な思想なんだ!」
「今となっては、返す言葉もないよ」
立木はそう言って悲しそうな目をした。「俺の所属する参謀本部には二つのグループがあってな、互いに独自に情報を集めていたんだ。それだけに一方が手柄を立てればもう一方が触発されて……という感じだった。俺も時々、街中に入り込み、抗日運動家の動きを探っていた。ある日の夕方……俺は、日本人らしい男たちが中國人に絡まれているのを見かけたんだ。ひとりは既にナイフで刺されており、その連れが震えて道にしゃがみ込んでいた。俺は相手の中國人を持っていた銃で追い払ったが、連中が逃げる際にこう言ったのが気になってな……(話が違うぜ、騙されたのか?)(いいや、偶然だろう、後で確かめてみよう)と」
「誰かに頼まれて襲ったというのか?」
「後日、あの時の連中のうちの一人が、俺の所属する所とは別のグループの幹部と会っているところを見て驚いた。そしてどういうことだと詰め寄ったんだ。金を払って抗日運動家に扮した中國人に日本人を襲わせる、そうすれば虹口地区や租界地区に無抵抗なものを襲った抗日運動家の悪評判が立つ。それを理由に一挙に抗日運動家を潰すきっかけを作っているのだと説明された……だから邪魔するなと。上の了解も取ってあるんだと言う」「酷い……その為に罪もない同胞が殺されるのに」
「お國の為に有り難く死んで貰うのだ、やむを得まいと……」
立木の声は震えていた。「何日かたって、俺はまた同じ手で事を起こすとの内部情報を掴んだんだ。今度は小学校の教師一家を襲わせると言うじゃないか。その教師は最近の日本軍のやり方に異議を唱えていたらしくて、まさに軍にとっては一石二鳥というわけだな」
「聖職ともいえる教師を中國人が襲ったとなれば、立派な軍発動の理由になるな」
「これが作戦通りにいけば、間違いなく日中闘争同盟の本部に兵を送り込めるだう、上海は戦場と化すはずだ」「上海が戦場に……」
「もちろん、日本軍が圧勝するだろう。万が一、戦いが不利になっても英吉利、仏蘭西は日本に手を貸すだろう。せっかく手に入れた裕福な暮らしを手放したりは誰もしないからな」
俺はもう自らの銃を気に掛けるのは諦めて黙って立木の話を聞いていた。
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