オスカー探偵事務所事件簿
……………… ONE NEVER KNOWS(人知れず)
 事務所から出ると暑さに負けた苦力(クーリー)たちが、僅かな日陰を求めてビルとビルの合間にたむろしていた。
「先生(シーサン)、お出掛けなら車をどうぞ」
と車夫の群が、なんとか稼ぎにありつこうと俺を黄包車(ワンパォツォ)に誘う。
「ノー」
と俺は連中を追い払うと、わざとゆったりとした足取りで歩き出した。通りの向こうで、日本語の新聞を読んでいる男に見せつけるように。

(チッ、やっぱり今日も張ってやがるぜ……)
 その、たぶん日本人……のお陰で、この暑さの中でも俺は、上着が欠かせない毎日が続いている。護身の為の銃が手放せないからだ。俺は知らんふりで、その日本人の横を通り過ぎた。ヤツは新聞から少し顔を出して、まだ俺の事務所のあるビルを見つめている。俺の変装はばれなかったようだ。
 俺はそのまま南京路を渡り、四川中路の水夢骨董堂を訪れた。リュミエールは、仏蘭西語で「いらっしゃいませ」と挨拶した。次いでオリヴィエも「どうぞご自由にご覧下さい。ご用がありましたらお声を」と普段の言葉使いからは想像もつかないような上品さで言った。二人とも俺だとわからない様子だった。オッケー。当然だ。
 俺は、付け髭をし、洒落た白い麻のスーツの下にタオルを何枚か詰め込み、恰幅の良い紳士に化けていたのだから。パナマ帽をゆっくりと取りながら、店内を見回して俺は英語でこう言った。

「そこの棚にある茶器を見せていただけませんかな?」
 俺の声と誤魔化しようのない赤毛に、オリヴィエとリュミエールはハッとしてお互い顔を見合わせた。その表情を見て取った俺は、この青い……アイスブルーの瞳を意味ありげにゆっくりと閉じて、側にあった俺専用と決めつけている椅子に腰掛けた。

「二人とも、接客している振りをしてくれ……なるべく自然に……」
 紛れもない俺の声に、二人は無言で頷いた。
「すまないな。万が一を考えて変装してここに来たんだ。お前たちに迷惑がかかるといけないんでな」
「本業絡みなんだね? 危ない仕事してるの?」
 オリヴィエはいつもの上海語に戻し、小声で尋ねた。
「ああ、ちょっと聞きたい事があるんだ、これを見てくれ」
 俺は背広のポケットから財布を出し、金を払う振りをして札と一緒に一枚の写真を取り出した。
 その写真には東洋人の三十そこそこといったところの男が写っている。
「裏を見てくれ、名前が書いてあるだろう……日本名なんで読み方がわからないんだ」
「立木勝利? タチキショウリ」
 とオリヴィエはその名前を読んだ。
「いいえ、オリヴィエ。これはショウリではくて、カツトシかマサトシかも知れませんね」
 リュミエールが付け加えて言った。
「タチキ……だな?」
「ええ、たぶん間違いはないかと。この方が関係あるのですか?」
「ああ、でも、この写真の事は忘れてくれ」
 俺はそういうとサッと写真を財布にしまった。

「いまから事情があってに城内(◆)に行く。三日たって俺がここに現れなかったら、どうかこれを国の両親宛に送って欲しい」
 俺は一通の手紙とロレックスを差し出した。
「手紙は国の両親に。この時計は預かってくれ。俺が帰って来なかったら売りさばいて、お前たちの仏蘭西行きの路銀の足しにしてくれ」
「オスカー……事情も話さずに行く事は許さないよ」
 オリヴィエは茶器を仕舞うフリをしながら言う。リュミエールは何も言わないが、すがるような目で俺を見つめている。悪い気はしないが、今はそれどころではない。
 しばらく沈黙が続いた後、俺は重い口を開いた。

◆城内
上海の中でも中國人が多く住んでいた地区。昔は周囲が城壁で囲まれ、七個の城門が設けられていた。中は純然たる中國である

 


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