1927.9.9 Thusday 水夢骨董堂 |
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翌朝、九時きっかりに水夢骨董堂の店の前に車が停まる音がした。 「来たね……」 「来ましたよ……」 オリヴィエとリュミエールは顔を見合わせて呟くと、ふうっと息を吐き気合いを入れた。 「うわぁ……ヤツの車、本当にシボレーだ……カティスとお揃の色違い。黄色塗装の特注だよ」 扉を開けようとして、窓から見えた孫の車にオリヴィエは感心する。 「どこまでも張り合うつもりなんですね……。よっぽど恨みでもあるんでしょうか?」 「ただ単にねちっこい性格だとか?」 「そうかも知れません……あ、車から降りて来たみたいですよ」 リュミエールは襟元をきちんと直しそう言った。オリヴィエはあわてて扉を開ける。 「おはようございます。リチャード・孫様」 「ん」 と軽く鼻で頷いてみせると孫は、「話はついたのだろうな?」と言った。 「それが……あのジュリアス様は……買値を指定されて……」 「いくらまでなら出すと言ったんだ?」 「千までならと」 金額を聞くと孫の眉が一瞬、ピクッと動いた。そこをすかさずオリヴィエが、「正直……私どもも驚いているんです。でも、ジュリアス様がポケットマネーで、千までなら即金で買えるからと仰ってしまわれたものですから……」といかにも誠実に打ち明けた口ぶりで言った。 「ふん、案外、セイント財閥のジュリアスも大したことはないんだな。自由になるポケットマネーが、千程度のはした金だとはな」 「でも千といえば一年間、遊んで暮らせるほどの額ですよ……」 リュミエールは、心底腹が立っているらしくわずかに声が震えている。その十分の一の金額でさえ一般庶民はままならないのだ。 「で、どういたしますか?」 オリヴィエの方も相当カチンときていて、愛想笑いを浮かべる余裕もなく尋ねた。 「どうするって、一万と言われたなら私も少しは考えるが、千なら考えることもない。さあ、水晶を渡して貰おうか」 孫がそう言った時、扉が開いて何食わぬ顔をしたカティスが入ってきた。 「おや? これはまた……意外なところで」 カティスは、孫の背中に声を掛ける。振り向いた孫の顔色が変わった。 「緑! なんでお前が?」 「噂で良い出物があったって聞いたんでね。この店は俺も贔屓にしてるんでな」 その意味ありげな言い方に、孫よりオリヴィエの方が眉を引きつらせる。 「もしや、お前も例の虹水晶の事を聞きつけて来たのか? なんでも強い運気を引き寄せ未来予言も叶うという伝説の……」 カティスは、飄々とした口調で話す。 「昔……あの水晶玉の事を聞かせてやったのは俺だ」 孫の声が怒りで低い。 「ああ、そうだったかなあ。だが、あの水晶の事は、他の連中も知ってるし、持ち主の婆さんが上海に住んでるらしい噂は前々からあったからな。昔、紫禁城にいたこともあるっていう城内の婆さんが死んで、その持ち物に、どうやらそれらしいものがあって、この骨董屋が買い付けたらしい……って噂を聞いたんでやって来たんだが、お前がいるところを見るとどうやら本当に……」 自分が流した噂を適当にベラベラと喋るカティスの顔を、オリヴィエとリュミエールは呆けたように見ていた。 「セイントのジュリアスも欲しがっていると聞き、俺もこうしてわざわざここに来たところさ。で、例の水晶玉は?」 「おあいにく様だったな。たった今、俺が買ったところだ」 「何? でも持っていないじゃないか? 嘘を付くな」 「おい、骨董屋! 俺が昨日、手付けを打って、たった今、買ったんだよな? ジュリアスが千元なら退くと言ったんで俺が買うと!」 ドスの効いた声で孫が言う。 「え……ええ……」 リュミエールが頷く。 「千元? なら千五百、出す」 カティスは即座に言う。 「馬鹿なことを。もう俺のものだと言ったろう」 「おいおい、秀文〜。まだ金を払っちゃいないのならまだお前のものと決まったわけではないだろう? 俺が手付けを打ってあった土地を横取りして行ったお前なら、そこの所の道理は判るばす。おやおや、それとも忘れたのかな?」 うだつの上がらなかった昔の頃の呼び名をわざと言われて孫の頭に血が上る。 「うるさいッ。なら俺は二千出す!」 カティスに煽られてそう叫んだ孫に、オリヴィエとリュミエールは、その金額に心底驚く。カティスは、わざとらしく顔を顰める。孫がリュミエールたちの方に向き直った隙に、オリヴィエにしてやったり……とばかりにウィンクをしてよこした。 「馬鹿馬鹿しい。いくらなんでもそこまでは出せん……」 「何とでも言え。西太后のお抱え占術師の持ち物だった水晶玉だ。あの玉の力の知ってる俺が持つに相応しい。この上海経済界に君臨する俺の守護代わりに丁度良いだろう」 「ふん、上海経済界に君臨だと? 高望み癖は父親譲りか? 勝手に思っておくがいい。邪魔したな、骨董屋」 カティスはそう言うと肩を竦めて、ここはひとまず退散とばかりに扉に手をかけた。 「美楽園か……愛人の残した男娼館から築き上げた財などたかが知れてるぜ」 孫の捨て台詞に、カティスは振り向かなかった。その代わり、凄まじいほどの怒りが背中に瞬時にして走った。バタン……と扉が閉まった後、オリヴィエは、ここからが腕の見せ所だ……とばかりに、孫の側に寄った。 「あの水晶玉、本当は何なのでございますか? 緑氏まで手に入れたいとは? 実はジュリアス様があまりに高値を提示された為、気になって念のため、知り合いの占い師に見て貰ったのですが……」 オリヴィエは、さらに小声になって、チラチラと辺りを窺うようなそぶりをする。 「その占い師の、顔色があの水晶に手を翳したとたん変わって、どうあっても一晩だけ貸して欲しいと」 「何? それで貸したって言うのか?」 孫はムッとした顔になる。 「申し訳ありません。貸さないとその水晶玉の事を吹聴すると騒ぎ出すわ、しまいには半泣きになって貸してくれとジタバタする始末でして」 オリヴィエは自身も本当に困ったのだと……という表情を作る。リュミエールは、宵闇亭マスターのクラヴィスが、駄々をこねたあげく泣き出すシーンを想像する……、そして“ありえません……"と心の中で呟き、項垂れる。 「ふふん、その占い師、あの水晶の価値が判るとはなかなかの腕前だな」 「ええ。普段は珈琲店のマスターをしていて、占術の看板など出しておりません。それなりの人物しか占わないという偏屈者でして。この世にも稀な水晶玉の持ち主になろうという人物なら、ぜひ占わせて貰いたい……とも申しましたので、どうでしょう? これから水晶玉を引き取りがてらその店へ行くと言うのは?」 オリヴィエは、そっとリチャードの腕に手を置いて微笑んだ。たとえその気がない男性でもオリヴィエから上目使いに見つめられてふわりと微笑まれると悪い気はしない。 「そ……そうだな。よかろう。案内して貰おうか」 リチャードがそう言うと、とっとと行きましょうと言わんばかりにリュミエールが扉を開けた。店の前で主が出て来るのを待っていたリチャードのお抱え運転手が、吸っていた煙草を慌てて消す。 「場所を案内してやってくれ」 リチャードは、リュミエールにそう言い、助手席に座るよう指示し、自分はオリヴィエと共に後部座席に滑り込んだのだった。 |
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