1927.9.9  Thusday
 宵闇亭
 
 福州路・雲南中路を少し北に入った所に宵闇亭はある。午前九時過ぎならばまだ開店しておらず、マスターであるクラヴィスが気だるそうに店の掃除をしているか、新聞を読みながら自分の煎れた珈琲を飲んでいる時刻だった。クラヴィスは、チラリと時計を見ながら“もうそろそろだな……、店の前を掃くふりでもして待っているか……”と思い、カウンターから出ようとしたその時、店の扉が開いた。
「マスター、お早う。昨日言ってたお客様、お連れしたんだ」
 オリヴィエは先に入り、クラヴィスに声を掛けた。孫は、薄暗い店内をぐるりと見渡して、最後に視線をクラヴィスに移した。長身でまっすぐな黒髪、国籍のはっきりと判らぬその風情は占 術師としては及第点だ……と思った。
「こちらへ……」
 クラヴィスは、無愛想にカウンターの席を勧める。オリヴィエとリュミエールは、一番奥のテーブル席があるはずの場所に、不自然に置かれた衝立に気づく。まだ掃除の最中……といった感じで他のテーブルや椅子が壁際に乱雑に寄せてあるから、常連客でないものなら、べつにどうということもないのだろうが、リュミエールとオリヴィエにとっては、見慣れぬ大きな衝立に、「ははぁ……誰かデバガメってるね……」と思う。案の定、孫の隙を見て、クラヴィスが衝立の方を、チラリと見て二人に合図を送った。

「さて、話はこの骨董屋から聞いた。あの水晶玉の価値が判るんだってな。ひとつ占って貰おうか」
 孫は、肘をつき、手の上に顎を乗せポーズをつけながら言う。
「…………」
 クラヴィスは無言のまま、水晶玉を取り出し孫の前に置いた。もちろんこれは偽物の玉である。
「おっと、まずは腕試しといこう。私がどういう人物か判るか?」
 いきなりの孫の質問に、オリヴィエとリュミエールは、焦りながらクラヴィスを見る。だが、彼はシラッとした態度のままで、水晶玉に手を翳した。

「……お前は……上海の人間ではないな……。仕事でこの地に来た……と言ったところか……多くの財貨が見える……金持ちだな」
 お前呼ばわりされたことに孫はムッとしている。だが、ここは占って貰う立場だと承知したのか一応は怒鳴り散らすこともなく黙っている。
「あ、当たってますねっ」
 リュミエールが少しでも雰囲気を良くしようと、すかさず言う。
「私も最近では新聞に載ることも多くなったのでね。その程度のプロフィールなら誰でもしってることだ。もっと何か感じないか?」
 クラヴィスの実力をさらに試そうと、孫は意地悪く言った。
「フン……、ならば……、ほお? いや、そんな……」
 クラヴィスがボソボソと呟く。少しわざとらしい。
「マスター、どうしたの? 何か見えたの?」
「黄色の袍が見える。豪華なものだ。皇帝の袍だ……」
「何?」
 孫は思わず身を乗り出す。
「お前は……そういう家柄の者か……」
 孫の口端が上がったのを、オリヴィエはしっかりと見た。ついでにそう告げたクラヴィス自身の口元も上がっている。もっともこれは馬鹿馬鹿しい……と言った感じなのだが。
“マスターってば、カティスから事前にいろいろ予習済みだね”
 オリヴィエはほくそ笑む。

「皇帝の袍か……。なかなか良い所を言い当てるじゃないか? 確かに……な」
 袁世凱の血筋だということは自分のプロフィールからは、伏せてある孫だが、ほんの一時、無理矢理にとはいえ確かに袁世凱はこの国のトップに上り詰めたことは事実だった。庶子として認めては貰っていなかったが、幾ばくかの金を母親は渡されていたから、自分が袁世凱の子であることは事実だ……と彼は思っている。その証拠に、『よいか、儂の言うとおりにするのだ。そうすればお前を要職につけてやろう。その手腕によっては後々……』と、時折やってきては、表沙汰にはできない仕事を幾つか言いつか っていたのだった。その時に、西太后の占術師が使っていたという虹色の光彩を抱く水晶玉を探す事も、言いつかったのだった。

“その水晶玉を持っていた女が、北京で袁と接触し、譲る約束の当日になって行方を眩ませた……俺は親父の命でその女の足取りを追ったが、故郷に帰ったらしいということまでは判ったが、居場所がどうにも見つからずにいた。それから年月が流れ、親父は死に、水晶玉のことはどうでも良くなったが、俺は気にかけてたんだ、ずっとな。香港から上海に拠点を移した半年前……、とある店の買収絡みで、その登記に名が上がっていた婆さんの事を知った。城内に住む一人暮らしの年寄りが、そんな財産持ちだとは、妙な話だな……と思い、人づてに聞けば、その故郷や昔、北京にいたらしいこと、いろんな事をよく言い当てるだとか、それらしい事が判って……やっと辿り着いたかと狂喜したのだが……”
 
「孫様、どうされましたか?」
 昔の事をふと思い出して黙り込んでいた彼に、リュミエールが声を掛けた。
「なんでもない。過去の事はもういい。これからのことを占ってくれ。具体的には商売のことだ。私がこの地で頂点に立つにはどうすればいい?」
「わかった……」
 クラヴィスは再び水晶玉に手を翳す。しばらくの沈黙。
「上海経済界には既に二つの大きな力が上にあるようだが……」
「そんなことは占うまでもなく判ってる。勿体ぶらずに早く云えよ」
 そう言った後、また孫は、考え込むように俯いた。
 
 孫が上海進出と決めて一年になる。その調査期間中に報告として上がってくるもののほとんどが、セイント財閥と緑グループのものだった。上海に移り住んでからは、その力を目の当たりにしている。親の代からこの地で成功を治めているセイント財閥は、欧州に於いても力を持っている。何世代も貴族として名を馳せてきた名門の嫡子として生まれたジュリアスに対する羨望は、孫の中では、すぐに嫉妬へと変わった。カティスにたいしては言わずもがな。養父の残した数店舗の経営を足掛かりにして、長も押されぬ企業グループへと発展させている。

「お前がこの二つの勢力の上に君臨するためには、より強運を掴むほかないようだな。この水晶玉を持ったことでその強運は呼び寄せられよう。後は……お前が腹を据わらせるかどうかだ」
「つまりは強気で行けと?」
「お前の追っている者が、この地で築き上げたものは既に大きい。だが……」
 クラヴィスはそこで口を噤んだ。
「だが、なんだ?」
「一度築き上げたものを崩させまいとするのは人の道理だからな。彼らの守りの姿勢を突き破ることが出来れば、案外近い将来……。今、手の内にある商談は全て強気に強引に出るがいい。特に今、手を出そうとしていものがあるなら、【買い】だな」
 フッ……とクラヴィスは笑う。
“マスターってば、どこまでがカティスのシナリオなんだろう……やけにマジっぽいよ……”
 オリヴィエは半ば呆れたようにクラヴィスを見つめながら、孫の出方を待った。
「【買い】か………」
 心当たりのある彼は、ニヤリと笑う。
「次のアポがある……あまり時間がないな。よし、今日はこれくらいで……ああ、そうだ」
 と孫は言い、椅子から浮かせた腰をまた沈めた。
「今度オープンするダンスホールの開店の日を占ってくれ。十月の中頃で」
「そうだな……。十月の……十五日だな」
 クラヴィスは即答する。孫は手帳を広げた。
「土曜か……そうだな、悪くない。日にちの切りもいいしな」
 孫は、手帳の十月十五日の欄に丸印を打ち、水晶玉を掴みそのまま上着のポケットに押し込むと立ち上がった。
「気に入った。また占ってくれるか? むろんタダとは言わん」
「開店前のこの時間なら……な」
 とクラヴィスは愛想の悪いままで答えた。
「店のオープンの日は、お前たちもぜひ来てくれ。まあ、もっとも……来るしかないだろうが」
 孫は、オリヴィエたちに真顔でそう言った。
「どういうことです……か?」
 リュミエールの顔が曇る。
「上海の遊興場の綺麗どころの引き抜き交渉は、ほぼ上手くいってるし、香港の店からとびきりの助っ人も連れてくるつもりだが、上海一、二の美男美女揃いと謳わせるつもりなら、お前たちの事を見過ごすわけにはいかんからな」
 孫は、立ち上がろうとしていたオリヴィエの顎をグイッと持ち上げて微笑む。
「その件でしたら、もう既にお断りしました」
 先に立っていたリュミエールは握り拳を作っている。ここが余所様の店内だということを差し引いても限界に近い様子だった。オリヴィエは上手い具合にスッと孫の手を交わすと努めて冷静にゆっくりと立ち上がった。
「私が買ってやったこの水晶玉の金で、しばらくは遊んで暮らせるじゃないか? 週に何度かウチの店に来るくらいのことはしても良いだろう? お前たちなら一晩で、客のチップだけであの黴臭い店の一ヶ月分の売り上げを稼げる」
 ギシッ……と何かが鳴ったが、孫はそれに気づかず上機嫌なまま言葉を続けた。
「女性、男性どちらの相手でもお前たちなら引く手あまただろうな。お前……オリヴィエと言ったな……。なんともそそる目をしている。緑もお前を狙ってると見たぞ。知ってるか? ヤツは……昔、自分の養父とそういう仲だったんだぜ」
 オリヴィエの目を覗き込んでそう言った孫の背後で、今度は衝立の後からミシッ……と何かが軋む音がした。
“そんなことは知り尽くしてるよ……なんて嫌なヤツ……”
 オリヴィエは、もう作り笑顔も見せずに、「水晶玉のお代残りを頂戴できますか?」と言った。
「ああ」
 孫は上着の内ポケットから茶封筒を取り出した。結構な厚みがある。
「数えさせていただきますね」
 リュミエールは札を取り出し、銀行員並みの早さで数えていく。
「昨日の手付けが三百、ここに千七百……。確かに」
「適当にと思って持参したが足りて良かった。まあ、二千くらいはたいした金額じゃないがな。じゃあ」
 孫が出て行くと、クラヴィスはカウンターから出て扉の鍵を閉め、外から覗けぬように半開きになっていたカーテンをキッチリと閉めた。せっかくわずかながらも朝の光が入っていた店内が薄暗くなる。
「すみません……マスター……」
 とリュミエールが唐突に言った。
「なんだ?」
「椅子の背もたれの部分を……壊してしまいました。さっき怒りのあまり握りしめてしまって……ちょっと割れたみたいです」
 申し訳なさそうにリュミエールは俯く。
「すまん、俺もだ……」
 衝立の後から声がし、カティスが出て来た。思わず側にあった棚に握り拳を突き立てたらミシッ……と」
「修理代の請求書は後で回す。リュミエール、お前は時間のある時、修理しに来い」
 クラヴィスはそう言い、ヤカンを火にかけた。 
「しかしまあ、いけすかない野郎だったな……」
 カティスの後からオスカーが顔を覗かせた。
「まったくだ」
 苦虫を噛み殺す……といった表現がぴったりの表情をしたジュリアスまでもが衝立の後ろから出て来た。
「まあ、皆、座れ。珈琲を煎れてやる。ジュリアス、お前のツケでいいな」
 クラヴィスは、しっかりとそう言うと、さっきまでの気だるそうな雰囲気とは違ってキビキビとカップを用意する。ジュリアスたちはカウンター席に座った。
「ふん、千がはした金だって言ってたんだよ」
 オリヴィエは悔しそうに札束を眺めて言った。
「千のどこがはした金なんだよ」
 オスカーがムッとする。
「そうだよ。ジュリアス様が、千までならポケットマネーで払えることを話したら、はした金だって。ジュリアス様も大したことないって」
「なんだとぉーっ」
 ジュリアスよりも先にオスカーが怒り出す。
「でも本当に、二千も即金で用意できるなんて……」
 リュミエールは持参していた小さな鞄から、手付け金の三百元を取り出し、先の代金と追わせて置いた。
「それにしても、マスターの演技、とても堂に入ってましたねヒヤヒヤしました」
 リュミエールは意外なクラヴィスの一面を見たようで感心して言った。
「どこまでカティスたちと打ち合わせしてたの?」
「…………」
 クラヴィスは、珈琲を煎れている最中で答えない。
「ヤツが袁世凱の息子かも知れないってプロフィールをザッと教え、今、手にしている商談は【買い】と言ってくれ……その事だけお願いした。後は別に。適当に良いことばっかりを作って言ってかまわん、と言っただけなんだが」
 とカティスは苦笑いしている。
「別に作り話をしたわけではない。本当に水晶玉に出ていたことだ」
 皆に珈琲カップを配りながらようやくクラヴィスが口を開いた。
「フン、確かに俺たちは、あんなギラギラしたねばっこい野望は、もう持ち合わせちゃいないな。ヤツに取引を奪われないようせいぜい気をつけよう」
「確かに……な」
 ジュリアスもここは素直に頷いた。
「なあ、アイツ、オリヴィエに気があるみたいだったよなあ?」 
 オスカーは何気なく言ったのだが、一瞬にしてその場の空気が凍り付く。その冷気の元はカティスだ。
「でも、その気はないらしいよ。ただ単に自分の店で働かせたいだけだろう。それにしても人の店のすぐ前であんな大きなダンスホールを開くって嫌みだよねえ。カティスに個人的に恨みでもあるんじゃないの? 昔のことまでネチネチと言ってたし……」
 オリヴィエは、グサッと核心を突く。
「オリヴィエ、ヤツには気をつけろ。今はどうだか知らんが、昔は……まあ、それなりに、ソッチの気も……」
 カティスは憮然としたまま言った。
「この間は、女と駆け落ちしたからノンケだって言ったよね?」
「あれはウチの店で働いていたナンバーワンの女で、俺に対する当てつけから騙して連れてったんだ」
「当てつけって……もしかして?」
 オリヴィエとオスカー、それにリュミエールのカティスを見る目が冷たい。
ジュリアスとクラヴィスの方は、いまひとつ事が理解出来ていないようである。
「いや……まあ、な。ほら、あれだ。俺はこの通り、なかなかの男前なわけだし……」
 カティスが気まずそうに答える。
「なるほど……さては、アイツに告白されでもして、冷たくあしらったと。それともキッチリ頂戴した末に、ボロゾーキンのように捨てたとか……」
 オリヴィエが具体的に言って、ジュリアスとクラヴィスは初めて“そういうことか……”と判ったようで、改めてカティスを白い目で見た。
「お前なあっ。俺はそこまで非道じゃないぜ。情けをかけた相手にはとことん優しい、お前にたいしても優しいだろう?」
 とカティスが言うと、クラヴィス、ジュリアス、オスカー、リュミエールが、ズササササーーと音がしそうなほど退いた。
「いつ、どこで、アンタとそういう関係になったよッ。いい加減なこと言うとタダじゃおかないよッ」
「いや、気持ち的に……と意味だったんだが……。それはともかく誰があんなヤツ、昔から嫌なヤツだったと言っただろう。相手になんかするものか。冷たくあしらったのは事実で、どうやらその時の事を今でも恨みに思ってるみたいだがな」
 カティスはそう言った後、らしくない様子で、ふうっ……と溜息をついた。
「半年ほど前、アイツが挨拶に来た時、昔の知り合いがこうして財を成し、上海に帰って来たのなら喜ばしいことだ……と思ったんだ。十年以上前の事なんかお互い水に流して、商売敵として良い関係になれるんなら……と思ったんだがな。だが、まあ、俺への恨みだけではなくてヤツは本当に上海で成功するつもりなんだと思うぜ。昔から何でも人の前に出たがる性格だったからな」
「何事に於いても一番でなければと思う性格の者はどこにでもいるな」
 とクラヴィスが言った。どことなしか嫌みっぽい。
「それは私に言ってるのか?」
 案の定、カチンときたジュリアスが、珈琲を飲もうと持ち上げていたカップを戻して尋ねる。
「いや。別に……な」
 フッと笑ったクラヴィスに、ジュリアスは無言のまままた珈琲を飲む。
「……何なの、この緊張感は……」
 二人の雰囲気を気にすまいと、オリヴィエはカティスに向き直った。

「で、これからどうするの? このお金……と例の水晶玉は?」
「おっと……そうだった。マスター、昨日、預けた玉は?」
 そう言われてクラヴィスは、引き出しの中から本物の水晶玉を取り出し、札束の横に置いた。
「本当に預かってたんですね、マスター。やはりそれ大したものなんですか?」
「ああ……。裡に秘めたるものが煮えたぎるような強さがある玉だな」
「西太后の野望が詰まってるんだよ、きっと」
「歴代の皇帝の持ち物だった……って婆さん言ってたしな」
「あのお婆さんの願いは、ジュリアス様かカティスさんにこれを……、ということでしたから……」
 リュミエールは、ジュリアスとカティスを見た。
「はっきり言って、俺はいらん」
 カティスが即答する。
「私も気がすすまぬ」
 間髪入れずジュリアスも言う。
「未来を見通す力だの、強い運気だの、そんな玉に頼らなくても俺はいい」
「同意見だ」
 きっぱりと言い切った二人に、クラヴィスがまたフッ……と笑う。
「あのおばあちゃんの話だと、例えば買おうとしてい馬券が当たるか否や……なんていうのも判るらしいよ」
「そうそう、将来見込みがある商売かどうか……とかもな」
 オリヴィエとオスカーは何故か二人して、水晶玉の凄さをアピールする。
「だから不要なんだよ。必ず当たる馬券を買って何が面白いんだ? 自分の選んだ馬が、勝つか負けるか、競馬の醍醐味はそこだろう?」
 カティスの言葉にジュリアスも頷いている。
「違うよ。勝った馬券が当たるかどうかは、今夜の夕飯が海風飯店になるか、屋台の饅頭になるかの瀬戸際……そのスリルとサスペンス……だろ?」
 オリヴィエが言うと、その他の貧乏人たちが一斉に頷く。カティスは肩を竦める。
「私もカティスも不要なのだ。クラヴィス、そなたが貰っておけば良い。そなたなら、自身の手で占うことも出来るのだから多少は役に立つだろう」
「ああ、それがいいな」
 カティスも同意する。だがクラヴィスは、そのカウンターの上の水晶玉をチラッと見ただけで手に取らない。
「私は既に水晶玉を持っている。この虹水晶は私には賑やか過ぎる。いらん。オスカー、お前が貰っておけ。怪我までしたのだから」
 クラヴィスがそう言うとオスカーがギョッとした顔をした。
「勘弁してくれ。俺はこういう霊感グッズは嫌いなんだ。気味が悪い。オリヴィエ、リュミエール、お前たち骨董屋だろう? 西太后のものだぞ、どこかに高く売りつけ……ってああ……孫に売りつけたことになってるんだった……」
「なんだよ、こんなことなら、アイツに偽物なんか掴まさないで、押しつけてりゃ良かったってこと?」
「ち、ちょっと待ってください。それではあのお婆さんが浮かばれないってことで、今回の計画が持ち上がったのではありませんか? 故人の願いなのですから、不要でも……」
 ジュリアスがカティスが持っておくべきだ……と、オリヴィエ、リュミエール、オスカー、クラヴィスが一斉に、二人を見た。と、素早くジュリアスまでもがカティスに視線を移す。
「お……おい。……判ったよ、判った。俺が貰う、貰えばいいんだろ。おい、オスカー。婆さんは、この玉を好きにしていいって言ったんだよな?」
「え、ええ。引き出しの奥につっこむか、いっそ捨てちまってもいいと」
「なら、好きにするさ」
 カティスは、水晶玉をガッシと掴んだ。
「よかったねえ、これでめでたし、めでたしだ」
 オリヴィエが、意地悪く笑って手を叩いたその瞬間。
「…………」
 カティスはオリヴィエのシャツの襟元をグイッと引っ張るとその中に水晶玉を放り込んだ。胸から腹部へ玉がゴロンと転がる冷たい感触がし、オリヴィエの臍のあたりで止まった。
「ひぇっ〜。ち、ちよっとっ」
「お前にやる。孫の事はまだこれで終わったわけじゃないから何かあったらまた招集をかける。ジュリアス、その金はお前にまかせた。好きにしてくれ。じゃあな」
 カティスは一気にそう告げると、玉をシャツの中から取りだそうとしているオリヴィエの肩をポンッと叩いて逃げるように店内から出て行った。
「うう……ぢくじょーーー」
 玉が背中の下から尻にまで回ってしまい取り出せず苦労しているオリヴィエの横で、ジュリアスは残された札束を見た。
「あんな人物とはいえ、人を騙して受け取ったものだ。これは上海孤児基金に寄付してはどうかと思うのだか?」
 ジュリアスの高潔な意志に、太刀打ちできないオリヴィエたちは、つい頷いてしまう。
「では、預からせて貰うぞ。オスカー、戻ろう。孫氏の事で幾つか調べたいこともあるのでな。では失礼する」
「は、はい」
 オスカーはあたふたとジュリアスの後に続く、扉を閉める間際、オリヴィエとリュミエールに、またな……と言う風に軽く手をあげた。
「なんだよ……結局、一元にもならず……、水晶玉は押しつけられ……」
 水晶玉を尾てい骨あたりに残したまま、ガクッと項垂れるオリヴィエを気の毒に思ったのか、クラヴィスはスッと彼の前に、普段は高いので飲めない大好物のウィンナー珈琲を置いた。
「ジュリアスのツケにしてやる、飲め」
「ありがと……マスター」
 クスンと鼻を鳴らすオリヴィエ。
「ねえ……オリヴィエ」
 とカウンター席に座り直したリュミエールが言う。
「何?」
「あの人、偽物だったからお金を返せと怒鳴り込んで来ないでしょうか?」
「う……ん……、それはないんじゃない? もともと鑑定書もないただの水晶玉なんだもの」
「例えば、あの人が占術師に占わせようとして、何の力もないタダ同然の玉だと言われて……」
「そうと判るちゃんとした占い師もいるだろうけど、そんなの滅多にいやしないよ。どうせ、適当なこと言うに決まってるさ。それにたぶん占って欲しい時はマスターんとこに来るんじゃない?」
「だろうな。そして私も適当なことを言うだろう。一回につき百元くらいぶんどってやろう……ふふ」
「あくどいねえ。でもさ、具体的な事を聞かれたらどうする? 馬券の当否とかさ」
「その場合は……外れる……と言っておく」
「当たるかもよ?」
「当たったら、本来外れるはずのものをお前の強運が変えた、太好了!と感心してやればいい。当たって気分が良くなっているからな、怒り出すこともあるまい」
「……マスター、アンタってばワルだね」
「フッ……」
「あ、そうだ。さっきヤツの店の開店日を十月十五日と言ったでしょ、なんでっ」
 クラヴィスはフフンと小さい、壁に掛けてある小さな暦を指差した。日本製だ。
「十月十五日は仏滅だ」
「まあ」
 とリュミエールが嬉しそうに笑う。
「ともかくこの件はもういいよ。あのお婆ちゃんは可哀相だけど、オスカーは生きてるんだし、ぶんどった二千元は寄付されるんだし」
「そうですね。商売上でのことはジュリアス様やカティスさんが頑張ってくれるのですし、わたくしたちはこれで……」
「貧乏人は、地道に日銭を稼ぐしかないわけだ……な」
 クラヴィスはそう言うと、『OPEN』と書かれた札を掛けに扉へと向かった。
「帰ろっか。ワタシたちも店、開けなくちゃ」
 オリヴィエは、ゆるゆると立ち上がるとふぁぁぁぁーーと欠伸をしながら伸びをした。そのとたん、スボンの裾から例の水晶玉がこぼれ落ちた。それは、コロコロと転がって先ほどまでカティスたちが隠れていた衝立に当たって止まった。
「ふん」
 と言いながら水晶玉を拾い上げたオリヴィエは「まあ、いいや……」と言いながらズボンのポケットに押し込んだのだった。
 

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