1927.8.29 Monday
 南京路
 

 四川中路にある水夢骨董堂に向かって歩きながらオスカーは頭の中で、老女の話を整理していた。ともかく老女の依頼である玉は、ジュリアスか緑水晶のどちらかに渡さねばならない。老女の死を知る前は、ジュリアスに事情を話し て渡そうと思っていたが、今となっては、こんな後味の悪いものをジュリアスに渡すのは気が進まないオスカーだった。かと言って、大して親しい訳でもない緑水晶に押しつけるのもどうかと思われる。オリヴィエなら何か緑水晶と繋がりがあるようだから、そこらあたりを含めて今夜中に相談してスッキリとしてしまいたいと思っていた。

“腹が減ったな……、何か買ってくか……”
 仕事の報酬が入ったばかりで、懐具合は悪くなかった。海風飯店に立ち寄って、コックをしているランディに、何か持ち帰れるようなものを頼めばオリヴィエたちも喜ぶだろう……とオスカーは思い立ち、南京路へと入った。この時間になっても人通りは途絶えず、かえって増えているくらいだった。これからダンスホールにでも繰り出すつもりの男たちの一群が前から歩いて来る。その中の一人が、「オスカーじゃないか!」と声を張り上げた。誰だろうと立ち止まったオスカー の元に、自分と同じ年くらいの小太りの男が近づいてくるのが見えた。小さな貿易会社の重役で、新聞記者時代の知り合いだった。

「よう。ひさしぶりだなあ。亜米利加に帰ったっていう噂を聞いたぜ?」
「お前が新聞社を退社した後、すぐに帰ったんだけど、三ヶ月前に出戻ったのさ。お前、今、どうしてるんだ?」
「しがない探偵さ」
 オスカーが肩を竦めて言うと、男は笑った。
「いろいろあったろう……心配してたけど、元気そうで良かったよ」
 オスカーが、新聞社を退社することになった経緯を彼は知っている。
「ああ、あの時はいろいろ心配かけたな」
「構わんさ。これから、四馬路の馴染みの店に行くんだ。一緒に行かないか? 奢るよ」
 気の良い男の誘いに、オスカーは乗りそうになった。返事をしようとした瞬間、オスカーの視野の角に、すぐ近くのビルの角で煙草を吸っている男の姿が映った。 城内の路地にいた男だった。

“まさか……俺をつけてた?”
 街灯の灯りで、もう一度チラリと男を見て、確かに同一人物だと確かめた後、何食わぬ顔で「せっかくだが、これからまだ仕事なんだ」とオスカーは言った。
「そうか、商売繁盛だな」
「いや、貧乏暇なしさ」
「名刺をくれよ。連絡するから」
 そう言われて、オスカーは上着から名刺を取り出して渡した。
「じゃあな」
 明るい声で、そう言った後、オスカーは、本当に城内から今までつけられていたかどうか確かめるためにも、男には気づかなかったふりをして、そのままごく普通に歩き出した。煙草に火を付けるふりをして立ち止まり、ライターをわざと落として後方の様子を伺うと、まだ男が後にいた。
“決まり……だな。けど、何だって俺をつけてるんだ? まさか……あの老女殺しと関係が?”
 ライターを拾い、再び歩き出したオスカーは、あの男は実は刑事で、もしや自分が老女殺しの犯人と間違われているのでは……と考えたのだ。
“冗談じゃないぜ。昨日の夜はちゃんとしたアリバイもある。よし、誤解を解くか! いや……待てよ”
 ヤツが、老女殺しの犯人って事もありうる……と、オスカーは、ふと思った。
“犯罪現場に犯人が戻ってくるのは珍しくない。周囲の反応を探って、目撃者のふりをして捜査を攪乱させるとかな……。それから、現場に証拠となるものをウッカリ残して来たとか……。じゃ、なんで俺をつけるんだよ? ……うーーん、やっぱり刑事かな”
 オスカーは、イライラとした気持ちを抱えながら、とりあえずはヤツを巻いてしまおうと考えた。さっき久しぶりにあった連れとの会話で、名前と職業は聞かれているはずだ。
 そこから住所を割り出すことなど造作もないはず。もし本当に刑事ならば事務所に尋ねてくるだろうと思ったのだった。南京路の人混みに紛れて、しばらく歩いた後、ビルの合間の脇道に入り、ぐるりと建物の周りを一周して再び、南京路に出る。そんなことを二度繰り返し、例の男がつけていないのを確かめると、オスカーはホッとして、ともかく水夢骨董堂に行こうと、四川中路へ出る近道である細い路地に入った。人気もなく薄暗い通りだが、通り抜けるのに五分とかからない。だが……。
 オスカーがその路地に入ったとたん、背後から別の見知らぬ男が声を掛けてきた。
「お兄さん、ちょっと聞きたいことがあるんだがな」
 オスカーは振り返らず、「急いでるんだ。道を聞きたいんなら他の誰かに頼むよ」と早口で言って走り去ろうとした。
「待ちな!」
 ドスの効いた声が飛び、オスカーは腕を掴まれた。と同時にさっきオスカーの後をつけていた男も路地に入ってきた。
「うまく巻いたつもりだろうがそうはいかんぜ。つけてたのは俺だけじゃなかったからな」
 男たちは互いに笑い合い、オスカーの腹に銃を突きつけた。
「何の用だ?」
 オスカーが睨み返すと、男たちは「西洋人のアンタが、城内に住んでるババアとどういう関係だ?」と尋ねてきた。
「愛人さ。俺は年上好きなもんでね」
 言ったとたん、細襟の上着の男の方が、左頬を思い切り殴りつけてきた。口内が切れ、血の味がする。
「ふざけんじゃねえ。次は殴るだけじゃすまねぇぞ」
「数日前、道でふらついてた婆さんを助けただけさ」
「それだけなら、なんで今日、スイカなんぞ持参してやってきやがった?」
「フン。路地に入ったとこから見ていたんなら、あそこにいた連中との会話も聞いてたんだろ? あんな貰い物、邪魔だから、婆さんに押しつけてやれと思ったまでだ」
「それだけじゃないはずだ。お前、ババアから何か預かっただろう?」
「知るもんか」
 ポケットの水晶玉を気にしながらオスカーは言った。
「大人しく出せば命だけは助けてやる」
「知らないと言ってるだろう。婆さんの名前も知らないんだぜ、何を預かるって言うんだ? いい加減にしてくれ!」
 オスカーが怒鳴り返すと男たちは一瞬、黙り込んだが、細襟上着の方が、クスッと嫌な笑い方をした。
「まあ、いいさ。お前、オスカーっていうんだってな。探偵だとか?」
 やはりさっきの立ち話を聞かれていたな、とオスカーは思いながら、なんとかこの場を切り抜ける方法を探っていた。
「赤毛の西洋人で名前はオスカー、探偵業か。電話帳を広げれば事務所の場所なんかすぐに判る。俺たちの仲間が今頃はお前の事務所へ家捜しに向かってる頃だ」
“まだ仲間がいるのか……。一体、コイツら何者なんだ……"
「なあ、ホントに俺は何も知らないんだ。婆さんちに強盗に入った連中が盗んで……」
 とそこまで言いかけて、オスカーは口を噤んだ。
「お察しの通り。ババアのヤツ、すんなり渡すもんを渡せば死なずにすんだものを」
「お前たちが……殺した……のか?」
「違うさ。ちょっとばかし押したら転びやがった。そしたら頭を打ったみたいでな」
「同じことじゃないか……酷いことを……」
「ババアは、食うに困ってとっくに売っちまったと言いやがったが嘘だ。家捜ししたが、出て来ねえ。代わりに出て来たのが、ババアの書きかけの手紙よ」
「手紙?」
「ああ。長年の重荷をようやく降ろせることになりましたので、近々そちらに参ります……とな。ばばあのヤツ、尼にでもなるつもりだったようだな、どっかの寺宛てだ。長年の重荷……それが俺たちが探してる例の物だとすぐに判ったぜ。ともかく、 張ってたらあんたが来た。スイカをぶら下げて、バカ面さげて、な」
 自分にあの水晶玉を託した彼女は、余生を静かに過ごすつもりだったのだ、それをこんな連中に……、そう思うとオスカーは思わず握り拳を作った。
「だから、それは、たまたま貰ったスイカを押しつけに……」
 オスカーは怒りで、その場を取り繕うセリフの最後までを言い切れない。腹に銃さえ突きつけられていなければ、すぐにでも殴りつけて半殺しにしてやりたい気持ちだった。
 上着の男は、オスカーの髪をわし掴むと、背後の石塀に、二度、三度と頭を打ち付けた。四度に打ち付けられた時、鋭い痛みが走った後、じわじわとその部分が熱く濡れたていく感じがした。
「おや、後頭部が切れたらしいな」
 冷淡な微笑みを浮かべた男がさらに、オスカーの頭を壁に打ち付けようとした時、路地裏に、場違いな声が響いてきた。商売女と酔っぱらった男が、腕を組みふざけ合いながら、オスカーたちのことなど眼中にも無い様子で。
「いやだぁーー、キャハハハ」
 露出度の高いけばけばしいドレス姿の女のカン高い笑い声が響き、銃を突きつけていた男の視線がそちらに逸れた瞬間、オスカーは本能的に男を突き飛ばして走り出していた。と同時に、とばっちりを受けたカップルの悲鳴と共に、「足を撃て!」と男の声が響いた。続いて銃声が三発。そのうちの一発が、スボンの裾を掠めていった。思わず蹌踉けたその時に、左腕に四発目の銃弾が当たった。グラリ……と前のめりに倒れそうになるのを堪えて、路地から通りまで出ると、人波と逆行するようにオスカーは気力で走った。「待ちやがれ」と叫ぶ男たちの声が背後に聞こえるが、さすがに人の多い通りでは撃てずにいる。その時、通りを歩いている人間を蹴散らすように一台の車がやってきた。ボンネットを濃い緑に塗らせた特注のシボレー・シューペリア……緑グループの緑水晶の車だった。酔っぱらい に道を阻まれて速度を落としたシボレーは、クラクションを鳴らしながら、ゆっくりと角を曲がっていく。オスカーは、背後に迫る男たちの気配を気にしながら、緑の車に沿うように走る。車は、緑グループが最近建てた本社ビルの前で止まった。ビルの前に立っていた巨漢の警備員がすかさずドアを開ける。暗くて顔までは確認できないが、緑水晶と思しき人物が車から降りたのを見たオスカーは 、一気に駆け寄った。オスカーは、たちまち警備兵に取り押さえられ、有無を言わさず腹に拳をお見舞いされる。
「緑……さん……、頼む……」
 そう言うとオスカーは、警備兵に寄りかかるようにして倒れてしまった。
「あっ、コイツ。既に腕を撃たれてますよ!」
「なんだ? 俺の命を狙ったんじゃないの……か? おや?」
 警備兵の腕の中で倒れているオスカーの髪をグイッと持ち上げ顔を確認したカティスは、「早く中に入れてやれ」と短くそう告げると自分は先にビル内へと入った。
「ボス、コイツ、お知り合いで?」
 警備兵は、オスカーを引きずるようにして入れた後、玄関先に彼を転がしてそう尋ねた。
「ああ。医務室に運んで手当をしてやれ。頭も怪我してるな。おい、しっかりしろ、一体、どうした?」
 薄れていく意識の中で、緑の声が微かに聞こえていたが、オスカーは答えることができず、そのまま目を閉じたのだった。
 

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