1927.8.25 Thusday 
城 内
 

 その日も朝からうだるような暑さだった。昼を過ぎる頃にはその熱気はピークに達していて、傾き掛けた太陽が照りつける眩しさに、通りを歩く者の大半は、眉間に皺を寄せ、俯き加減でいる。
 
 「もういい加減涼しくなっても良さそうなもんぢゃないのさ?」
とブツブツと文句を言いながら歩いているのはオリヴィエ。その横でリュミエールが、「まあまあ、仕方ありませんよ、まだ一応八月なんですから」と涼しい顔をしている。
 だがその実、リュミエールの方も、無意識のうちにシャツのボタンの三つ目をも外すという失態を犯している。二人は仏蘭西租界を抜け、中國人が多く住む城内という地区に入った。あまり西洋人が通ることのない通りに入り、余所者を見る中國人たちの視線を浴びても、いっこうに気にせずに二人は歩き続けた。
 
「夕飯は何にしましょう?」
「今晩のおかずは、ちょっとボリュームのあるものにしようよ。この暑さってば、スタミナつけないとやってけない。壺を売った代金も手に入ったことだし」
「そうですね、トンカツとか……あ! あれ、オスカーじゃありませんか?」
 通りの向こう側に、麻のジャケットの前を極限まではだけさせ、ネクタイをだらしなく緩めた赤毛の男が汗を拭きながら歩いているのが見える。
「おーい、オスカー、オスカーッ」
 オリヴィエは、手を振りながら叫んだ。自分を呼ぶ声に、辺りを見回したオスカーは、オリヴィエとリュミエールの姿を見つけ、「お!」と小さく声を上げると手を振り返し、道を渡ってきた。
「よぉ。こんな時間に二人して外にいるなんて珍しいじゃないか? 店は?」
「配達の帰りさ。急ぎのちょっと大きな荷物だったんで二人して出たのさ。アンタは? また浮気の調査?」
「いや、別件。企業からの依頼だ」
「まあ、貴方にしてはマトモな依頼じゃありませんか」
 サラリとキツいことを言ったリュミエールを、オスカーはギロッ睨み付けたものの、大きく開いたリュミエールのシャツの襟元に、その顔をデロッと崩した。
「リュミエール、チラリと見える鍛え上げたその胸板と顔とのギャップが堪らんぜ」
 オリヴィエはとっさに一歩下がり、リュミエールの背負い投げのとばっちりを受けないように待機する。
「オリヴィエ、ご期待に添えなくて申し訳ありませんが、オスカーを投げ飛ばす体力が私には残っていません〜」
 リュミエールは、額から滴り落ちる汗を拭う。
「チャ〜ンス、と言いたいところだが、俺ももう足がフラフラだ」
「んぢゃ、ともかく早く帰ろうよ。オスカー、アンタもちょっと店で休憩して行きなよ」
「そうさせて貰うか」
 三人はこうしてタラタラと水夢骨董堂へと歩き出したのだった。河南中路を横切り、豫園を抜けて四川中路に出ようとした時に、彼らの背後で、「ばかやろう! のそのそ歩くんじゃねぇ!  クソババァ」と叫ぶ声を聞いた。振り返ると荷物を極限まで荷台に積み上げた自転車の男が、怒りながら去っていく所だった。野菜の入った麻袋を持った老女がペタンとその場にへたりこんでいる。
「おばあさん、大丈夫ですか? 家はお近くですか? どなたかご家族の方をお呼びして来ましょうか?」」
 すかさずリュミエールが走り寄り、老女に手を差し出す。オリヴィエは、袋からこぼれ落ちたジャガイモを拾ってやる。
「あ、ありがとう、すまないね。 一人暮らしなもので家には誰も。けど、大丈夫、もう歩け……」
 老女は立ち上がろうとするが、暑さ負けしているようで、立ち眩みを起こし、再びその場にしゃがみ込んでしまった。
「よし。婆さん、俺が家まで背負ってってやるぜ」
 オスカーは、自分の背中に乗れというようにしゃがみ込んだ。
「でも……」
「おばあちゃん、遠慮しなくていいよ。この男、困っている女性を見ると放ってほけない立派な紳士なんだよ〜」
 オリヴィエは老女に手を貸しながら、オスカーの背中に凭れさせた。
「よっ、と。さあ、家はどっちだい?」
「この通りを左に入った突き当たりの路地の奥だよ。お兄さんたち悪いね」
「どういたしまして。ちょっと汗臭いのは我慢してくれよ」
「オスカー、重くなったら代わりますからね」
 リュミエールとオリヴィエも老女の荷物を持ち後に続いた。老女の家はさほど遠くはなく、あばら屋も多い城内の中にあっては、まだしも小綺麗な通りにあった。西洋人に背負われている老女を見て、知り合いと思しき女が駆け寄ってくる。絵に描いたような肝っ玉母さん風の その女は、威嚇するようにオスカーたちを見返した後、「ばあちゃん、どうしたんだい?」と尋ねた。
「大丈夫、大丈夫。買い物に出てたんだけど、暑さ負けしてね、ちょっと具合が悪くなって、助けて貰ったのさ」
 老女は、オスカーの背中から頭をもたげて女に告げた。
「そう……。後で、また様子見に行ったげるからね」
 オスカーたちをまだ警戒するような目つきで見ながら、彼女はそう言った。路地の奥、老女の家の前に着いたオスカーはそっと彼女を降ろした。
「ありがとうね。こんな所だけど、せめて冷たい水でも飲んで行ってくれるかい?」
 老女は頭を下げると、中華風とも西洋風とも日本風とも言えないような中途半端な建て付けの悪そうな引き戸を開けた。冷たい水……と聞いただけで喉がゴクッとなるほどに喉が渇いていた三人は、彼女の言葉に甘えることにした。
「さあ、上がって頂戴よ。今すぐ井戸水を汲んでくるからね」
 戸を開けてすぐに狭いながらも居間があり、意外にも洋風のソファが置いてあった。
「へぇぇ……。オスカーんトコのソファより上等だよ」
 とオリヴィエは周りを見ながら感心したように言った。全て古ぼけてはいるが、城内の貧しげな長屋とは思えないほどに、ちゃんとした雰囲気のある部屋の佇まいなのだ。部屋の片隅の本箱には、何かの全集のような本が入っている。その本箱の上の置物が、リュミエールとオリヴィエには気に掛かる。
「あの壺、良いものですね」
 水の入ったグラスを持ってきた老女に、リュミエールが尋ねた。“おや? お判りで?"というような表情を一瞬した老女に、オリヴィエが「これでもワタシたち、古物商なんだよ」と付け加えて言った。
「骨董屋さんだったのかい、。最近のものだけどね、いい絵付けだろう」
 老女は、三人に水の入ったコップを渡しながら言った。
「俺は違うけどな。ああ、上手い、生き返った〜」
 ゴクゴクと水を一気飲みしたオスカーに、老女はヤカンから二杯目の水をつぎ足す。
「赤毛の兄さんは何を?」
「探偵さ」
「そそ、浮気調査専門のね〜」
「失敬な。俺の得意先には、セイント財閥や緑グループなど一流企業もあるぜ。浮気調査は片手間だっ」
「へへーーん、どっちが片手間だかーー」
「ちょっと、ちょっと、あんたたち」
 いつもの調子でやり合う二人を老女は止めた。
「すみませんね、おばあさん、騒がしくて」
 リュミエールがやんわりと謝ると、老女は構わないよ……というように首を振った。そして、それまでの温和そうな優しい眼差しとは違った、真剣な目で、「ねえ、お兄さん、セイント財閥のジュリアスや、緑グループの緑水晶と逢ったことはあるかい?」と尋ねた。
「ジュリアス様とは乗馬やダーツをする仲だぜ。この骨董屋の二人も、ジュリアス様とは懇意だしな。俺は緑氏とは面識程度だけど、オリヴィエ、お前は緑氏と親しいんだったな?」
「親しいワケぢゃないよ。腐れ縁……かな」
 それを聞いた老女は、じっとオリヴィエとオスカー、リュミエールの顔を見ていた。
「なるほど……。ようやく私の重荷も降りるわけだ……」
 その呟きに、三人は顔を見合わせる。
「お前さんたち、年寄りの頼み事を聞いてくれるかい?」
 老女はスッと立ち上がると居間の片隅にある鏡台の引き出しから緋色をした小さな布包みを取り出し、オリヴィエたちの座っているテーブルの上に置いた。ゴドンと重い音がする。布がはらりと解け、中からさほど大きくない水晶玉が現れた。
「これはちょっと珍しい玉でね。兼ねてから、上海の未来を託せるような大人物にお渡ししたいと思ってたんだよ。ジュリアスか緑水晶かどっちかに手渡してくれるかい?」
「はあ……」
 突拍子もない頼み事に三人は顔を見合わせた。
「どちらでもいい。あんたたちがこの人ならと思える方に渡しておくれ。ね?」
「これをあげる……ってこと?」
 オリヴィエは、そっと目の前の水晶玉を手に取った。直径四、五センチほどのそれは内部に大きなクラックを含んでい る。薄い空気の層を含んだまま結晶し、その部分に光りが当たると虹色に輝く。虹水晶……と呼ばれるものだが、別に取り立てて珍品というわけではない。今、オリヴィエたちの前にあるそれも綺麗な虹色の反射を見せてはいるが、どうということもない品に思われた。
「そう。どう使うかは自由だけれど、持っていて貰うだけでいい。出来れば引き出しの奥かなんかに忍ばせておくか……。不要と思ったら捨てて貰ってもいい。どうするかは持ち主にまかせる」
 そう言われても……とオリヴィエたちは黙り込んだままだ。
「何の面識もないこんな年寄りが逢いに行ったところで、受付で摘み出されるのがオチだろう。どうしたら確実に手渡せるか、ずっと考えてた……今日、あんたたちと出逢ったことは運命……」
 そんな大袈裟な……と思いながらも、三人はそれを口に出さずにいた。承諾の返事をしない彼らに老女は、水晶の包みを押しつけた。彼女から一番近い位置に座っているオリヴィエが受け取らざるを得ない風になる。
「あ……う……うん」
「良かった。さあ、水はどう? おや? いいの? それじゃ、気をつけてお帰りね。本当にありがとう」
 畳みかけるように老女に言われて、三人は返す言葉もないまま立ち上がり居間を出る。
「あの……あのさ、おばあちゃん」
 やっぱりこんなこと気が進まない……そう思ったオリヴィエは老女の家の扉を開ける直前に振り向いた。
「おや、まあ。なかなか言いなりにはならない坊やだねえ。でも、それでこそ見込んだだけのことはあるねえ……」
 小さな笑いと共にそう言った彼女は、オリヴィエの目をじっと見つめ返した。その後、オスカーとリュミエールも。
“託しておくれ、この玉を……、未来の為に……”
 老女の意志が伝わって来たようで、オリヴィエたちは小さい子どものようにコクンと頷くと、そのまま何も言わず老女の家から出た。三人は、ただボーッとしたまま通りを歩き続けた。
 

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