初恋は実らないもの……
そんなことは僕だって知ってる
初めての恋が、ずっとずっと持続するなんて思えないもの
それは心の中にあってこそ、とても大切に思えるものなんだ
だから、僕は何も言わない
アンジェリークが側にいるだけで、それだけでいいよね
ね、チュピもそう思うよね……
◆
「まさかそなたにまで先に行かれてしまうとは思わなかった」
ジュリアス様は、しみじみと仰った。
「闇と光のサクリアは、緑のサクリアと属性が違いますから。ジュリアス様は、まだまだお元気で聖地にいらして下さいね」
僕は少し意地悪く言った。
「そなた、私のサクリアが衰えぬのを笑っているだろう?」
ジュリアス様は、苦笑しながら僕を睨み付けた。
「ええ、少しは」
「ふん」
けれど、ジュリアス様はすぐに穏やかな瞳を返して下さった。
思い返せば、ジュリアス様は厳しい人だった。自分にも他人にも。時に父親のように大きな存在だった。この人に認められたくて頑張った。大人と言える歳になり、初めてジュリアス様と酒を酌み交わした時の事を忘れない。暖かくて大きなその存在に改めて気づいた時の事を。
「ジュリアス様、これは僕が造った中でも逸品です。お別れの印です、どうぞ」
僕は、持参してきたワインを差し出した。
「そうか有り難く戴くとしよう。カティスのワインも美味であったが、そなたのワインも旨い」
「僕はただ、カティス様の言いつけ通りに造ったまでです。あの方のワインにはおよびませんけれど」
「カティスか……懐かしい名だな。その名を知るものも聖地に少なくなったな」
「そうですね……あれから随分経ちましたね。……ジュリアス様、名残は尽きないですが、僕はもう行きます」
「ああ、次元回廊まで送ろう。皆への挨拶は終わっているのであろう?」
「いえ、どうかそのままで」
僕は立ち上がろうとなさっていたジュリアス様を止めた。
「他の人たちへの挨拶は済みましたが、クラヴィス様が執務室にいらっしゃらなかったので、まだなんです。それが終わったら……一人で聖地とお別れしたい気分なので、どうか……」
そう言うと少し胸が詰まった。
「そうか……ではマルセル、つつがなきよう……」
「はい、ありがとうございました。ジュリアス様もお元気で」
僕は心を込めて、尊敬するジュリアス様に頭を下げた。
ジュリアス様の執務室を出て、僕はクラヴィス様を探すために中庭に向かった。居眠りでもされているのかも知れないとそっちに回ってみたら、案の定、クラヴィス様は、木陰でぼんやりとなさっていた。
「マルセルか……行くのか?」
「はい、いろいろとありがとうございました」
「ああ、元気で」
「クラヴィス様、僕の造ったワインの中でも選りすぐりものを、ジュリアス様に預けて置きましたので、どうぞ、ご一緒に召し上がってくださいね」
僕がそういうとクラヴィスは、苦虫を噛みつぶしたみたいなお顔をされた。
「フッ……そなたにまでカティスの真似事をされるとはな……」
「僕は別にカティス様の真似事などしていませんよ、お二人が、実は仲がいいのはわかっていますからね。たまたま、一番出来のいいワインは一本しかなかっただけなんですから。その他のワインなら、地下貯蔵庫にありますから、お好きにお飲み下さい。ふふふ」
「なんだ、その笑いは。まぁ、いい。アレと間違いなく飲ませてもらおう」
「きっとですよ。では、失礼します」
僕はクラヴィス様にも最後の挨拶をした。初めは怖い人だと思っていた。穏やかに過ぎる聖地の時の流れの中で、彼がどういう人が判ったのは、ようやく僕が聖地に馴染み、新しい女王が誕生した頃の事だった。あれから、僕は何度もこの人の無言の眼差しに助けられた。
「送ろう」
「いいえ、もう少し聖地を歩いてから行こうと思うんです、だからここでお別れします」
「わかった、ではな……」
クラヴィスの瞳は少し寂しそうだった。
「クラヴィス様、気を付けないと、その樹はそろそろ毛虫が発生する時期ですよ」
僕は、おどけていい、その場を走り去った。
そして僕は、宮殿の中庭を一気に抜け、裏庭の誰もいないところまで走った。見慣れた聖地の全てに、さようならと、別れの言葉を呟きながら。
◆◇◆
僕は、宮殿の裏庭のあまり日の当たらない所にひっそりと立つ老木の前に来た。僕とカティス様の思いでの樹。
「お前とも今日でお別れなんだ、どうか元気だしてくれよ」
僕はそう言うと木の幹に額をつけた。相変わらず微かな鼓動しか感じられない。この老木は、僕が聖地に上がった頃から、あまり元気が無かった。カティス様もその事をとても気にしてらっしゃった。守護聖交代の短い時間を僕とカティス様は、よくこの樹の下で過ごした。聖地のいろいろな話しを聞いたりして。
……そして、僕の聖地での最初の友達だったチュピともこの樹の下で出会った。チュピは今、この樹の根元で眠っている。
僕にとっては、これは大切な樹だ。カティス様も僕も、樹の聲を聴き、出来るだけの手当はした。かろうじて生き延びているその老木も季節の巡りに合わせて、僅かだが芽吹き、花を咲かせて実を付けことがあった。その実は大切に育て、苗木は、もう何本も聖地のあちこちに移植した。けれど母樹の方は、ここ数年は実に至るほどの花もつかず、今年も小さな花が梢の陰に隠れるように、ほんの僅かに咲いているだけ。
「だめだ……お前は聖地でもとても古い樹だからね。しっかり根付いて聖地を見守ってくれないと、もう少し……せめてアンジェが女王でいる間は……」
僕は老木に凭れて語りかけた。ふいに、草を踏む小さな音が背後で聞こえた。僕が振り返るとそこに女王陛下が立っていた。
「陛下……」
僕は慌ててその場に跪いた。
「マルセル……行ってしまうのね」
「はい」
「どうか、立って頂戴」
僕は言われるままに立ち上がり、女王陛下を見下ろした。
(初めてあった頃は、僕は君と同じくらいの背だったね……アンジェリーク……)
今では決して口にはできない陛下の名前を僕は心の中で呟く。
「故郷に帰るの?」
「はい、たぶん。その前に少し主星でのんびりして、それから戻ろうかと思います」
「あのね……新しい女王が誕生するの……」
「え? では久しぶりに女王試験が?」
「いいえ、次代の女王の資質を持つ子はもう決まっているの……私の力はもうほとんど残ってはいないのよ。ジュリアスとクラヴィスには言ってあったけれど、次代の子の元に正式に使者を出すまではと思って伏せてあったの……」
そう言えば、思い当たる節は幾つかあった。
「少し……だけ引継の時間が必要なの……」
悲しそうな声だった。
「もう少し早かったら、もう少しだけ……そしたら……。貴方がずっと前に聖地を去るとか、私の力がまだまだ続くのなら、仕方のない事と諦めもついたけれど、こんなに、こんなに僅かな時間なのに、……聖地と下界の時の流れが……辛いわ」
陛下が女王になった時の守護聖で残っているのは、ジュリアス様とクラヴィス様、そして僕だけ。守護聖の交代がされる度に、とても陛下は寂しそうになさっていた。きっと陛下はとてもお寂しいのに違いないと僕はその時思った。
「僕も寂しいです。聖地を出たら、ああしようこうしようと計画を立てていた時は楽しかったのに、いざとなると……出来ればもう少し……ここに残りたかった……陛下のお力がある限り……」
「マルセル……一緒に行きたかった……」
そういうと陛下はその場に座り込んで泣き出した。女王候補になったばかりの頃のアンジェリークを僕は思いだした。
「どうか、泣かないで下さい」
僕はそう声を掛けて、そして、陛下の言葉の意味を、僕は……心の奥底で考えた。
『一緒に行きたかった』……それは僕だって同じことだけれど……。
「あなたの事が大好き……ただ最初の頃から一緒にいたから、あなたの事が気にかかるんだと思っていたの。でも違うの……本当に……」
思いがけない言葉だった。信じられない気持ちだった。その言葉が、一時の寂しさから出たもので無いことをもっとはっきりと確かめたかった。
けれど「僕は、待ってるから……」と言うのが精一杯だった。それ以外の言葉が怖くて出せなかった。
「ありがとう、でも無理、何年もマルセルを待たせることなんか出来ないもの」
そう言って、瞳に一杯涙を溜めている人は、もう……僕の手の届かない女王陛下などではないように思えた。
「僕は十年前から貴女の事が大好きだったんだよ」
僕は静かにそう言った。
「マルセル……ごめんなさい。ちっとも判ってなかったのね……守護聖が次々と交代して、ジュリアスとクラヴィスと貴方が残って、その時に私、初めて自分の気持ちに気づいたの」
僕は、思わずアンジェリークを抱きしめた。小さくて可愛い肩だった。
「時の流れが違う事に感謝するよ、僕は待ってる間に貴女の歳を追い越して、ちゃんと支えてあげられるようにもっとずっと大人になっておくから」
アンジェリークは戸惑っているようだった。僕が彼女の立場だったら、やっぱり戸惑うに違いない。相手の事を思えば、簡単に待ってて、なんて言えはしないから。
「今はまだ、陛下としか貴女の事を呼べないけれど、もう一度、名前を呼べる日を待ってるから」
僕はアンジェリークの手を取った。その時、僕たちの間に、薄桃色の小さな花弁がひらひらと舞い降りてきた。緩やかな螺旋を描きながらそれは大地に落ちる。僕は彼女の手を握りしめながら、最後のサクリアを放った。ただすべてのものへの感謝を込めて。
ねぇ、チュピ……こんなこともあるんだね
僕の恋はとても遅咲きだったけれど、こんなに綺麗な花が咲いたよ……
おわり
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