ジュリアスの心は深く沈んでいた。光の館の私室に入るとすぐ様、彼は額飾りを外した。投げ捨ててしまいたい衝動に駆られながら、重い肩飾りも、神鳥の刺繍を施した上衣も、乱暴とも言える仕草で脱ぎ捨て、ようやくひとつ、溜息をついた。

 扉の向こうで、側仕えの「お食事の用意が調っております」という声がし、ジュリアスは「いらぬ」と言おうとして、その言葉を飲み込んだ。
 「すぐに行く」と彼は答え、白い紗のシャツに袖を通した。食事など欲しい気分ではない、だが、自分の為に食事を用意してくれた館の者の気持ちを思うと、さしたる理由もなく、突然食事をキャンセルするわけにはいかぬ……とジュリアスは思い直したのである。

 ジュリアスは鏡の前に立ち、硬い表情の自分の顔を見た。その瞳と同じ色のリボンでゆるやかに髪を束ねると、襟を正し、私室を出た。
「すまぬが量は少な目に……」
とジュリアスは執事に伝え、着席した。
「……では、先にお茶でもお持ちいたしましょう」
 ジュリアスの顔色をつぶさに見てとった執事は言った。

「しかしそれでは……」
「お疲れの時は無理はなさいませんよう。お心遣いは、厨房の者にも伝えます。お部屋の方にお茶を運ばせましょう。もう少しされてから、お召上がりになってもよろしいかと」
 ジュリアスの言葉をやんわりと遮り、執事はそう言うと、一礼し去っていった。その執事の細かな心遣いが、ジュリアスの沈んだ心を一層煽った。執事に対してでは、もちろんない。

 先刻からの怒りにも似た気分の落ち込みは全て、自分自身に対してのものであった。相手の状況を思いやる気持ち、自分がどういう態度をとるべきか……それらについては厳しく自分を律してきたジュリアスである。
 執事の自分に対する心使いは、光の館の執事であるという仕事上のことのみでなく、ジュリアスの具合を気遣ってとの事だった。そこには人としての温かさがある。

 では自分は彼女に対してどうだったか……と思うと再びジュリアスの心は沈んだ。
(だがしかし……私は……決して冷酷なわけでは……)
 とジュリアス呟きながら重い足取りで、再び私室に戻った。すぐに暖かいお茶が運ばれ、側仕えが去ってしまうと、寂しすぎるほどの静けさが部屋の中に満ちた。湯気のたつカップに唇を運ぶ度に、少しだけジュリアスの心が和らいだ。

◆◇◆

  それは今朝の事。
 ロザリアが、突然、会議の最中にやってきてお茶会を開くと言い出した。土の曜日の午後からお茶会が開かれるのは、たまにある事だったが、それでも数日前から案内があってのことだった、当日の午後からとは、彼女らしくないやり方だった。

「もしかしたら、何か陛下の事でご相談でもあるのではないですか? 陛下は少しお疲れのご様子ですし……」
 リュミエールが心配そうにそう言うと、その言葉に一同が頷いた。

「そうかも知れぬ。急な話ではあるが、皆で午後からロザリアの私邸に赴こう」
とジュリアスも同意したのである。

 女王宮殿の横、位置的には王立研究院の裏側にあたる場所に、女王補佐官の私邸はあった。守護聖の館に比べれば小さいが、手入れの行き届いたバラ園を囲んで、ロザリアの館は建つ。通された部屋には、ほんのりと甘い香りが漂い、穏やかな音楽が微かに聞こえていた。

 「みなさま、ようこそ」
 と弾んだロザリアの声とともに、彼女たちは入ってきた。ロザリアと女王アンジェリークである。

「げ、陛下!」
 とゼフェルが思わず叫んだ。
「ゼフェル様も、皆様もお聞きになって。今日は定例の親睦会などとは違って、本当にお仕事の帰りに少しお茶をするようなもの。わたくしの私邸での軽い集まりですから、どうか、陛下という呼び方は、およしになって。以前のように、お名前でお願い致しますわ」
 ロザリアは少し決まり悪そうにしているアンジェリークの肩を、そっと押し出すと、席に座るように勧めた。

「ジュリアス様、楽しいお茶会になるといいですわね」
 ロザリアは、渋い顔をしているジュリアスに向かって、すかさずそう言い、返事を返させずに微笑むと、畳みかけるように、お茶の用意をし出した。

 それからは、楽しい時間が過ぎた。ゼフェルは、女王となったアンジェリークをひやかしたり、からかったりした。オスカーは、アンジェリークとロザリアをお嬢ちゃんよばわりすることで、その場の雰囲気を和ませた。クラヴィスでさえ、以前と変わらぬようすで、アンジェリークに接していた。
 ジュリアスは、皆の様子を、極めて寛大な心で、始終、微笑みをたたえて見守っていた。
 やがて、夕刻が迫り、皆はロザリアの館を跡にした。

 途中、ジュリアスは、ロザリアへの執務上の伝言を言い忘れた事に気づき、一人、引き返した。

 (良いひとときであった、陛下も楽しそうにしておられた……ゼフェル、オスカーの言動にはいささか行き過ぎた面があったが、まぁよかろう……)

 ジュリアスは、改めてお茶会を開いたロザリアに、感謝の礼も言うつもりだった。薔薇の咲き誇る前庭のベンチに伏して泣いているアンジェリークを見るまでは。

 ジュリアスは何事かと、立ち尽くす。

「そんなに泣かないで……」
 ロザリアはアンジェリークを抱えるようにして言った。

「ごめんね、ロザリア。もう泣かないから……。私の為に開いてくれたのに……。楽しかった、楽しかったけど……やっぱりダメだったわ……」

「わかってるわ。わたくしも途中で気づいたわ。どうしてもお名前で、呼んではくださらなかったわね……高潔な方だから、仕方がないわ。皆にいつも仰ってる手前もあるでしょうし……」
「いつか私が立派な女王になって、一人前の女性になったら、頑張ったら、もしかしたら振り向いて下さるかもって思ってたけど、くじけそう……」
 アンジェリークは、そう言うと、また涙ぐんだ。

 二人の言葉の端々から、ジュリアスは自分の事で、アンジェリークが泣いているのだと理解し、そのまま、ロザリアの館から直ぐさま引き返した。お茶会の席で、皆とアンジェリークが楽しそうに笑っているのは、ジュリアス本人にとっても心地よいものだった。
 だが思い返してみると、自分からアンジェリークに声をかけはしなかった。誰かの問いかけにはもちろん笑顔で応えた。だが、「陛下は……」と言い出すところを「そなたは」と前のようには言えず、名前を呼ばなくてもよい、差し障りのない会話に置き換えていたことにジュリアスは気づいた。

 ジュリアスは、夕日の落ちる中、光の館への帰り道の途中で、半年前の事を思い出していた。きらめく湖面を見つめながら聞いた言葉を。

 アンジェリークの告白…………。振り向いた時、自分を真っ直ぐに見つめながら、彼女の唇から漏れたその言葉。ふいに、柔らかな金色の髪の輪郭がぼやけ、彼女の背中に現れた純白の翼、女王の翼の幻覚に、ジュリアスは捕らわれた。

(女王となるべき人を、感情の赴くまま、抱きしめることなどできない)

 ジュリアスの結論は、曖昧だった女王試験の進行を一気に早めた。戴冠式の日、壇上で光溢れんばかりの神々しさに満ちたアンジェリークを見たとき、ジュリアスは自分の選択は正しかったのだと誇らしい気持ちになった。たとえ、心の奥底に、一抹の寂しさが残ろうとも、それは光の守護聖としての使命や、宇宙の均衡に比べれば、些細な事だと、ジュリアスは思った。

 初めて「陛下」と呼んだ時、アンジェリークは悲しそうな顔をした。「ジュリアス様」とつい言ってしまったアンジェリークを、「どうかジュリアスとお呼び下さいますように」と窘めた時も。

 アンジェリークが自分への思いを、まだ断ち切ってはいないのではないか、とジュリアスは思い、距離を置くように勤め、時にもたげるアンジェリークを愛おしく思う気持ちを押し隠し続けた。

 全ては、陛下の、アンジェリークの為に……と。だが、即位から半年、この世の暖かさを封じ込めたようなあの笑顔が、次第にアンジェリークから消え失せていった。そして先刻のあの涙……。

◆◇◆ 

 ジュリアスは、飲み干したティーカップを、溜息とともにテーブルに置いた。
 『潔く生きること、常に正しき道へと』、とジュリアスは呟いた。生家から持参したもののほとんどに、家紋とともにこの言葉が記されていた。その言葉を呪文のように呟きながら、ジュリアスは時計を見た。眠ってしまうには、まだ早すぎる時刻だった。

 「潔いか……? 今の私は……」
 ジュリアスは瞳を閉じそう言うと、しばらくの後、意を決して立ち上がった。

 星明かりが照らす道を、ジュリアスは宮殿へと急いだ。何事かと訝る衛兵に、適当な事を言い、宮殿内に入ると、ジュリアスは、長い回廊を黙々と歩き、女王陛下の私室のある奥の宮へと急いだ。人気のない奥の宮ではあったが、年かさの女官がジュリアスを見つけて、行く先を制した。

「陛下にお伝えする事がある故、通る」
 ジュリアスは静かだが威厳に満ちた声で言った。

「では、陛下にお伝えいたしますので、謁見の間にてお待ち下さいますよう」
 女官の方も毅然とした態度でそう言った。ジュリアスは内心、見事な対応だと感心しながらも、後には引くわけにはいかなかった。

「そうするのが当然ではあるが、このような時刻である。おくつろぎの陛下にご足労かけるのは申し訳ないと思う。一言で済む故、お目通り願いたい」
 ジュリアスは、それ以上は何も言わせぬとばかり、に女官の目を見た。さすがの女官もジュリアスにそう言われては頷くしかなかった。

「承知いたしました。突き当たりの扉を開けますと、小さなパティオになっております。その庭を挟んで陛下の私室がございます」
 女官は回廊の突き当たりの白い扉を指し示した。

「陛下の私室はもっと奥の間ではなかったか? パティオと続きになっている間は、陛下付きの女官の間ではなかったのか?」
 女王宮殿の奥の宮へは守護聖といえども、足を踏み入れはしない。ジュリアスでさえ、書面上でその間取りを知っているに過ぎなかったのである。

「夜は女官を側に置かず、一人にして欲しいと、陛下がお望みなったのでございます。もちろん、御用があればすぐに対応できるようにはしております。そして、何よりパティオの続きの小さな間を気に入られましたので……」
「わかった」

 ジュリアスは女官に言われた通りに、回廊の突き当たりの扉を開けた。本当に小さな中庭がそこに設えてあった。煉瓦を並べた手作りの花壇、日除けの傘の下には、一人分だけのティーテーブルと椅子。おおよそ女王である身分とは、正反対のささやかなアンジェリークのプライベートな庭がそこにあった。

 庭の片隅の外灯の下に転がっている小さな赤い水差しが、豪華な女王の私室に住まう事を躊躇わせたアンジェリークの心の様で、ジュリアスは堪らなかった。

 この中庭と続きになっているらしい彼女の私室の扉を、ジュリアスは叩いた。
一度、二度……。

 コツコツという音を訝しそうにしつつ、アンジェリークは扉を開いた。
「何かしら……?」

 扉の向こうに立つジュリアスに、アンジェリークは声も出なかった。

(陛下、夜分に申し訳ありません……)
と言いそうになってしまうのを、ジュリアスは堪えた。が、堪えるのが精一杯で、言葉を発する事が出来ない。アンジェリークも突然のジュリアスの訪問は、悪い知らせにしか思えず、息を殺して身構えた。ジュリアスはまだこの期に及んで戸惑っていた。相手は女王陛下なのだ……と。

「何かあった……のですか?」
 アンジェリークは不安そうに尋ねた。少しの沈黙の後、ジュリアスは、やっと、微かに言った。

「アンジェリーク」

 そのたった一言の効果に、ジュリアスは驚いた。怯えるように固い表情だったアンジェリークの瞳の変化に。ジュリアスは立ち尽くしているアンジェリークの肩をそっと抱いた。

「ずっと私はそなたを抱きしめたかったのだけれど……」
 憧れ続けた少女を初めて抱きしめる少年のように、そうジュリアスは囁き、アンジェリークを見た。彼を虜にしたあの微笑みがそこにあった。

「おや……まぁ」
 ジュリアスの為にお茶を運んできた女官は、微かに開いていた扉の向こう、星明かりのパティオで、寄り添う二人の姿を見つけて小さく叫んだ。

「でもこの件に関しては、どこにも申し上げる処がないわねぇ、本当ならば首座の守護聖様にご報告申し上げるところだけれど……ふふふ、陛下ようございましたね」

 女官は肩を竦めながら、楽しそうにその場を去っていった。

来年に続く……。

 


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