『Fortune smile 0』
フォーチュン・スマイル ゼロ
微かに扉を叩く音がしたような気がして、私は書類から目を離し顔をあげた。そこにはクラヴィスが気怠そうに立っていた。まったく相変わらずのようだ。
「ほう……そなたが私の執務室に来るとは……何用だ?」
私は訝しげに尋ねた。
「仕事にならぬので館に戻る……」
とクラヴィスはボソボソと言った。ますますもって不可解な……。
仕事だと? このものが、執務室で仕事らしい仕事などしたことがあるのか?
せいぜいが回覧の書類にサインする程度であろう?
執務時間の最中にどこかに出掛けてしまうとか、館に戻ってしまうことなどいつものことではないか!
そもそも執務室にいても半分は寝ているようなものではないか。 それなのに今日に限って何故、私にわざわざ館に戻ると伝えにくるのだ! 何か理由があるのか、ええい、回りくどいぞ、クラヴィス!
私の眉間に思わず皺が寄る。それを見計らったように、クラヴィスは次の言葉をようやく発した。
「金の髪の女王候補が、私の執務室で眠っている……」
「何っ? 一体、それはどういうことだ?」
「リュミエールの執務室から戻ると、金の髪の女王候補が寝ていたのだ。大方、育成以来に来て、待っているうちに寝入ってしまったのだろう……椅子から転げ落ちんばかりの風情で、声を掛けてみたが、いっこうに目覚めぬ……そういえば、今朝使った香が、私にはなんともないが、眠気を誘う成分が入ってるらしい……そのせいで眠りが深いのかも知れぬ。……それとも誰かのせいで女王試験がよっぽど辛いか……フ……いずれにせよ、そういうわけで私は館に帰る」
言うだけ言うと、クラヴィスは私の言葉も待たずさっさと退室してしまった。
「アンジェリークにも困ったものだ……先刻も聖殿の中庭で、うたた寝していたではないか……あの時もたまたま散策中の私が通りかかったから良かったものの……いかに平和な飛空都市の聖殿の中といえど、野生動物もいるし、側仕えや研究院の者などもいるのだ、万が一と言うことがあってからでは遅いというのに……。ましてや今度は、クラヴィスの執務室でだとっ?」
私は、書きかけの書類を終い、足早にクラヴィスの執務室に向かった。
◆◇◆
クラヴィスの執務室は昼夜を問わず、どん帳といった方が相応しいカーテンが閉まったままである。クラヴィスが言っていた香の残り香なのか、ゆったりとした気分にさせる良い匂いが漂っていた。私は壁に取り付けられた僅かな照明だけを頼りに人気のない部屋の中を見回した。
クラヴィスの机と椅子……、そして壁際にもう一客椅子が……と、そこで私はその椅子の下に、アンジェリークが倒れるようにして眠っているのを見つけた。
「そなた! 椅子から落ちたのか………確かに、この香りとこの部屋の雰囲気は眠りを誘うものだが……しかしこのような状態になりつつも、ここまで無防備に寝入ってしまうとは、やはり疲れているのだあろうな……だがこのままでは……」
私はしゃがみ込み、アンジェリークを起こす為に、その細い肩に手をかけようとしたその時。
「う……う〜ん」
小さな寝息を発ててアンジェリークが動いた。と、その拍子に彼女の赤いスカートの裾が乱れた。
「こっこれは、な、なんということだっ。この部屋が薄暗いのが幸いしたが、どうしたものか……このままでは取り返しのつかぬ所まで着衣が乱れてしまう可能性もある……」
私は、慌ててアンジェリークの太股が、少しだけ露わになってしまったスカートの裾を直そうと、手を伸ばした。
「クッ。……ダメだ。私には出来ない……しかし……若い女性のこのような霰もない姿を放っておくことは……」
だが私は意を決してて立ち上がり、右肩の付けてある紋章を外した。
シャラン……と飾り鎖が微かな音を発てる。纏っていたトーガの上衣だけを外した。衣擦れの音が妖しく部屋に響く。
「ふぅ……」
と思わず溜息が出た。、再びアンジェリークを見た。そして脱ぎ捨てたその上衣をふわりと彼女の上に掛けてやった。
「いたしかたあるまい……」
私は眩暈を感じながらクラヴィスの執務室を退室した。
◆◇◆
そして一時間後。私の執務室の扉がノックされた。その躊躇いがちな音は、アンジェリーク……。私のトーガを抱えたアンジェリークがこれ以上ないというくらい情けなさそうな顔をして入ってきた。
「ジュリアス様……私……ごっ、ごめんなさいっ」
と言うなり彼女はいきなり頭を下げた。
「もうよい。クラヴィスの執務室も悪いのだ。あれではまるで寝室の様だからな。そなたも以後は気をつけるように」
私はアンジェリークを思いやって努めて穏やかに言った。だがそれがかえってアンジェリークを驚かせたらしい。アンジェリークはそれだもまだごめんなさいを連発していた。
「もうよいと言うのに。なかなか目の保養もさせてもらったぞ」
私はアンジェリークを和ませるためもあったので、あえて少し不戯れて見たのだ。が、慣れぬ事をするものではなかった……。
「め、目の保養って……わ、私…もしかして変なカッコとか……それでジュリアス様のお衣装が被せてあったんですね……」
見る見るアンジェリークの目に涙が溜まった。
(……しまった)と思った時には、もう、その緑色の瞳が大粒の涙がポタポタと溢れ出していた。そして顔を手で覆ったままアンジェリークは執務室から逃げだそうとした。
「アンジェリーク、待て!」
私の呼び止める声にアンジェリークはピクッと反応し、振り向いた。
「すまぬ……そなたを泣かせるつもりなどなかった。それほど霰もない姿だったわけではなく……あ、いや……」
振り返ったアンジェリークの目にまた涙が溢れる。
「いや、私は断じて何も見ておらぬ。決して何もっ」
何を言ってるのだ私は……と思いながらも、私は言った。
「アンジェリーク、困ったものだな……どうか泣かないでくれ……そなたに泣かれると……」
と言いかけて私は口をつぐんだ。前にもこのセリフは言ったことがある。そうなのだ、アンジェリークに泣かれると私はどうしてよいかわからなくなる。
ふいに私の脳裏にオスカーの言葉が思い浮かんだ。ゼフェルがロザリアに本意ではないのだが、心ない事を言ってしまい泣かせてしまった時の事だ。オスカーがその対処方法を得意に語っていた。
(女性の涙を止める方法など簡単だぜ。ただ黙って抱きしめればいいんだ。俺の胸の熱い鼓動や腕のぬくもりで、思いは伝わるはずだ。女王候補のお嬢ちゃんたちだって例外じゃない。でも、これは俺だから通じる方法かも知れんな。お子さまのお前たちとじゃ包容力ってもんなが違うからな、ははははははは)
いささか軽薄なのでは、と思ったが、確かに一理ある……ように思える。 私は泣き顔のアンジェリークの肩に手を伸ばした。
「アンジェリーク」
私はそっと、あくまでもごく軽く彼女を抱きしめた。
「ジュリアス様……泣いたりしてごめんなさい、私、はしたない事をしてしまって。恥ずかしくて……もうジュリアス様から嫌われたり、見放されてしまったかと思って……」
アンジェリークは小さな声でそう言うと、また俯いた。
「私はそなたを嫌ったりはせぬ」
アンジェリークの体は、壊れてしまいそうに儚い。
心臓が早鐘のように打つ……何をしているのだジュリアス! そなたは陛下に使える守護聖なのだぞ……。別の私の声がした。
しかし私はその場から動く事ができなかった。腕の中のアンジェリークを離したくはなかったのだ。
それはもはや、女王候補を慰めるという名目を過ぎた行為であるとは思わないのか? 首座の守護聖であるそなたが個人的感情で…………。
またも別の私が追い打ちをかける。もうよい、わかっている!
私はアンジェリークから手を離した。アンジェリークはもう泣いてはいなかった。
「ジュリアス様、本当にありがとうございました」
明るい声だった。良かった……と思い、私も微笑み返した。
「以後は気をつけるように。だが、どうしても睡魔に耐え切れぬ時は……」
(どうせなら私の執務室で眠るように。そなたの寝姿を他の誰にも見せたくはないのだ。……ましてやクラヴィスなどに見せてたまるものかっ。アヤツはあのような風をしているが、結構手が早いのだぞっ。)
口からついて出ようとする本音を私は寸での所で飲み込んだ。アンジェリークは私の言葉がとぎれたので首を傾げた。
「あ、いや……医務室などで休息するといい、あるいは、せめてディアの所であるとか……」
私は慌てて、そう取り繕って言った。
「もう居眠りなんか絶対しないですっ」
私の心中になど全く気づくこともなく、アンジェリークは少し澄ましてそう言うと、照れくさそうに笑った……。
おしまい
|