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「私の名前のついた薔薇を見せてくれるか?」 ジュリアスは言った。クラヴィスは何も言わず立ち上がると、応接間から外に続くガラス扉を、開け放った。 「少し足場が悪いぞ」 そう言ってクラヴィスは外に出た。芝生と低木で整えられた応接間から続く庭を抜けると、そこはもう人手の付けられていない静かな林の風情がある場所だった。それでも、そこが闇の館の敷地内である証拠に、煉瓦を埋め込んだ小径が造ってあり、通り道の枝は一応は刈ってある形跡がある。クラヴィスの後について、ジュリアスが歩いていると、ふいにクラヴィスが立ち止まった。 「どうした?」 ジュリアスは、怪訝そうにクラヴィスの背中に言った。 「少し待て。先客がいる」 「?」 ジュリアスはクラヴィスの肩越しに覗いた。カサカサと草の音がする方向を見ると、薄茶色の尾がチラリと見えた。 「またキツネの親子か? 私の先客は」 ジュリアスは、小声で言った。 「子の方が、まだたいそう小さい。通り過ぎるまで待て」 ジュリアスは、クラヴィスに言われるまま、その場に立ち止まった。 風にそよぐ葉の音、鳥のさえずり、小動物の通り過ぎて行く音……、ふいに、甘い匂いがどこからかした。 “あれは……たぶん……” 金木犀の香りと共に、ジュリアスの中に ずっと幼い頃の記憶が甦った。 “ここは、何回か訪れた事がある……”と。 ふと、目を落とした先にある野草に、ジュリアスは目を細めた。穂先がフサフサしている様子がユーモラスなエノコログサである。 「クラヴィス、あれは、あれは何と言ったか?」 「毛虫草……?」 「本当の名だ」 「知らぬ、そんなもの」 「ネコのしっぽだとか、ネコジャラシなどと言わなかったか?」 「そうとも言ったな」 「マルセルに聞いてみよう」 「何を……はしゃいでいるのだ?」 と、クラヴィスは鼻先で笑った。 「はしゃいでなどおらぬ。ただ……ただ懐かしんでいるだけだ」 ジュリアスの呟きを聞こえぬふりをして、クラヴィスはまた歩き出した。 そして茂みを抜けたところで……。 「あれだ、お前の名の付いている薔薇は」 クラヴィスが、前方を指さした。古い鉄製のアーチがそこにあった。そのアーチに沿って、白い薔薇が咲き乱れている。枝先は、無秩序な方向に延びてはいるが、そこかしこに白い小さな薔薇が、こぼれ落ちんばかりに咲いていた。 「クラヴィス、私は……、知っている。この風景を……」 ジュリアスは、そう呟いた。 「あのアーチは、カティスが薔薇を植える時に、一緒に置いたものだ。お前は一度も見ていないはずだが」 「そうだ、幼い頃には、何度かは来たが、長じてからは、ここには来たことがない。だが、あのアーチと、それに絡んで咲く薔薇の様子は、知っている。見たことがある。それは、カティスの部屋で……」 ジュリアスの心に、記憶が押し寄せる。あの日、あの夕暮れ、聖地を去ることになったカティスの部屋を訪れた時に……。 「カティスは、聖地を去ることになって、記念にと聖地中を、スケッチしていただろう」 「ああ」 「女王宮殿、庭園、守護聖の館……そんな中から、特に気に入った場所を、大きなキャンバスに描き写していた。ある日、館を訪れた時に、優雅なラインを描く鉄製のアーチと咲き乱れる薔薇の絵を、カティスは描いていた。カティスの側に置いてあったグラスに、一輪、小さな薔薇が差してあった。その絵の薔薇は、これが見本か? と、私は尋ねた。美しい薔薇だと、その時に私は言ったのかも知れない……。その風景が、聖地の何処か私には判らなかったので、カティスに聞いたのだ……」 「この鉄製のアーチを置いた時、まだ薔薇は、私の膝くらいまでしかなかったのだぞ。それもたった一株だけしか。その風景画のようには咲き誇ってはいなかったと思うが?」 「カティスは、これはまだ架空の場所だ、と言った。まだ聖地にはない、と。たぶん、そなたの裏庭に植えた薔薇が、やがて、こうなるだろうと想像して描いていたのだろう。たいそう美しい絵だった」 「この薔薇を植えにやってきた時、カティスは、丈夫な薔薇だから、やや木陰の湿った重めの土さえあれば、手をかけずとも育つ、と言っていた。ここが条件にぴったりだとも言っていたな。剪定さえもせず、自然にまかせて、放っておけと」 「マルセルがいうには、この薔薇はカティスの署名がないので、未完扱いなのだそうだ。このように咲いてこそ完成したといえる……と、カティスはそう思ったに違いない」 薔薇を記念に植えたいと聞いてクラヴィスは、あまりいい顔をしなかった。強い香りのものは嫌だった。手のかかるものも迷惑だと、愛想無く言うクラヴィスに、カティスは笑いながら言った。 “大丈夫だ、香りも仄かだし、手もかからない。けれど、きっと素晴らしくなるから、ここに植えさせてくれ” と。 そして、強引に植えていったのだ。 「そなた、薔薇図鑑に署名をせよ。これはもう未完の薔薇などではない」 ジュリアスは、手にしていた図鑑をクラヴィスに渡そうとした。 「お前の名が付く薔薇だ、お前が、記せばいい」 クラヴィスは、図鑑を受け取らずにそう言った。 「カティスならば、何と言う? おそらく……」 “どっちが署名したっていいじゃないか” クラヴィスにも、ジュリアスにも、カティスの声が聞こえたような気がしていた。 |