次の日の曜日、ジュリアスは緑の館を訪れた。
「これが記録書です、ちょっと古ぼけていますけど」
 臙脂色した革表紙には、金文字で、『薔薇図鑑』と書かれている。ジュリアスは、表紙を捲った。黄ばんだ紙が、時代の古さを感じさせる。見知らぬ緑の守護聖の名前……、手書きの文字と、本人が描いたものか、あるいは、別の誰かに描かせたものか、薔薇の精密画が添えられてある。ジュリアスは、さらりと流すようにしてページを捲った。精密画は、やがて写真へと変わる。
 そして最後の方に、見覚えあるカティスの筆跡に辿り着いた。深紅の薔薇……アマンティーヌという名前が付いている。艶やかなその薔薇に相応しい優雅な名前だった。

 アマンティーヌ……とジュリアスはその名を呟いた。
「素敵な名前でしょう」
 ジュリアスの横にいたマルセルが言った。
「うむ。この薔薇によく似合っている」
「初めてこの薔薇図鑑を見せて貰った時、これはきっとカティス様の恋人か、想いを寄せている人の名前かなと思ったんですよ。故郷のお母さんか妹さんか、幼なじみかも……カティス様のとても大切な人に違いないって 。すごくロマンチックな想像しちゃいました」
 マルセルの目は笑っている。
「違ったのか?」
「大切な人というのは正解でした。詳しい答えは、後で。次を見てください」
 にっこりと笑いながらそう言うと、マルセルは次のページを捲った。

「マッキンリー……?」
 初々しい乙女のような淡いピンク色した小さな薔薇の名前にそう付けられている。
「これは、あまり、この薔薇に相応しい名前とは思えないのだが……」
 ジュリアスはそう言うと、マルセルを見た。
「僕も、そう思います。でも、面白いエピソードがあるんですよ」
「ほう?」
「当時、この館には、チェルシーという側仕えの若い娘さんがいたそうです。と、同時に庭師見習いをしていたサイファスという若者もいたんです。ある日、チェルシーは、カティス様にお茶を運んで来て、サイファスと鉢合わせになったんだそうです。彼女はお茶の用意をしながら、カティス様の机の上のその薔薇を見て、“なんて綺麗な薔薇なんでしょう”と言ったんだそうです。ところが、その時、サイファスも、“この薔薇、とても綺麗ですね!”と言った。つまりは二人、同時にその薔薇の事を綺麗だと言ったんです」
「それで?」
「カティス様は、新種の薔薇に気づいて、最初に綺麗と言ってくれた人の名前を付けることにしていたんですって。その事をチェルシーとサイファスに言うと、二人とも、とっても自分の名前を付けて欲しそうにして、先に言った言わないの喧嘩になってしまったそうなんです」
「なるほど、それで、マッキンリーと別人の名がついてしまったのか……、それにしても、また似合わぬ名前が……」
 と言いかけたジュリアスに、マルセルはクスクスと笑って、話しの続きを聞かせた。

「いいえ、マッキンリーは、サイファスの姓なんですよ。“俺は、最初にこの薔薇を綺麗だと言ってくれた人の名前を付けようと心に決めていたんだ、お前たち、俺の薔薇の為に、いっそ結婚してしまえ”って、カティス様が仰って。結局、その一言で、二人は意識し合うようになって、結ばれたんですって。だから、マッキンリーは、二人の名前なんです」
「なんと……。まあ、カティスらしいといえば、らしい……な。カティスはいつもそのようにして薔薇の名前を決めていたのか? では、先ほどのアマンティーヌというのは?」
「緑の館のお料理係りのおばさんの名前だそうです。自分には名前を付けるセンスが、いまいちないから、一番最初に綺麗だと褒めてくれた人の名前を付けることにしているんだって仰ってました。アマンティーヌは、ちょうど良かったけれど、マッキンリーは、 ちょっと。けれど、そんな風に名前を付けるって素敵なことだと僕は思うんです。自分の造った薔薇を通して、何か縁のようなものをずっと後まで語り継ぐ事ができるでしょう」

「そうだな。ただ単にイメージだけで名付けるよりも後になって、思い出話にもなるし、印象に残る……」
「ジュリアス様の名前の薔薇、ジュリアス様のイメージとは少し違うかも知れないけれど、最初に綺麗だとおっしゃったんですよね、……カティス様が造った一番最後の薔薇。ほら、これでしょう?」
 マルセルは当然、ジュリアスも知っているとばかりに、ページを捲って、白い小さな薔薇を指さした。そこには、ごく小さな写真が一枚だけ貼られていた。

「この薔薇を私が最初に綺麗だと……?」
 ジュリアスには、その薔薇の記憶はなかった。カティスの執務室や、館には、そこかしこに花が飾られているし、温室や庭園には、それこそ数えきれないほどの花が咲いている。目に付いたものに、綺麗だと言ったことは一度や二度ではないはずである。それに写真に写っている薔薇は、一見、ごくありふれた小さな野薔薇のようで、とりたてて人の目を惹くような美しさではないように思えた。解せぬまま、ジュリアスは自分の庭に咲いている例の薔薇の事を思い出した。
「マルセル、黄色い薔薇の記録はあるか?」
「ええ……えっと……、これですか? レイモンド。当時の執事さんの名前ですよ、これ」
 それは、優しげな淡い色合いの黄色の薔薇で、ジュリアスの庭のものとは違う。

「いや……、もっと大輪の……、見ようによってはオレンジに近いほどの濃い黄色のものだ」
「じゃ、これだ、クラヴィス! クラヴィス様のお名前の付いてるもの」
 マルセルの開いたページに、まさしく例の薔薇があった。
「では、これは、クラヴィスが、最初に綺麗だと褒めた薔薇……という事になるな?」
「そうですね。この薔薇、とても手間が掛かるんですよ、花の終わった後、ちゃんと剪定して、土の濃度なんかも調節しておかないと、次に咲く花の色や巻が、良くなくて。薔薇園の中でも一番難しい薔薇です。でもそれだけに一番、大きくて見事なんですけど」
 マルセルがそう言うと、ジュリアスは知っているとばかりに頷いた。その薔薇を植える時に、カティスが、“お前の館の庭師なら扱えるだろう”と笑っていたのを覚えている。
「ジュリアス様、もしかしたらジュリアス様の所に、ジュリアス様のお名前の付いた薔薇がありますか? この小さな写真ではあまりよくわからないので見たいんです」
 マルセルは、再び、小さな白い薔薇のページを繰って言った。

「薔薇園にはないんですよ。当然、あるものと思って、僕も探したのですけれど。記録には、名前しか書いてないし。他のページの薔薇は、写真にしても、いろんな角度から撮影したものが、何枚も残っているし、土や肥料の割合など、育て方を記載してあるのに。これじゃあ、この薔薇が他とどう違うのかよくわからない」
「あいにくだが、私の庭には、このような薔薇はない。カティスには聞かなかったのか?」
「ええ。他の薔薇の事は、聖地を去られる間際に、この図鑑を見ながらお話しして下さったんですけれど。一番最後のページだから、僕もその時は、気づかなくて。ジュリアス様の所にもないんですね……もしかしたら、試作段階だったのかな、長く育たなかった薔薇かも知れないですね。きっともう枯れてしまったんだろうなぁ。それで署名がないまま……」
 残念そうにマルセルは、ほとんど空白のそのページを見て、溜息をついた。

「署名……?」
「ええ。ほら、ここにカティス様のサインがないでしょう。一番最後に署名をするんです、確かにその薔薇が存在する証に」
 マルセルは、空欄のままの署名欄を指さした。ジュリアスは前のページを繰ってみた。確かにそこには、見知っているカティスのサインがあった。
「マルセル、この記録書を少し貸しては貰えぬか? 確かめたいことがあるのだ」
「ええ、構いません。もうページがいっぱいになったから僕の代から新しいものを用意しましたし、どうぞ、ごゆっくり」
 マルセルは机の上にある真新しい記録書を指さして言った。
「では、借りていく」

“私の名前の付いた薔薇は、……もしかしたら、見つかるかも知れぬ。カティスが私の庭に、クラヴィスという名の薔薇を植えたように、あれの庭にも……”
と、ジュリアスは心の中で思った。緑の館を出た後、待たせてあった自分の馬車に乗ると、ジュリアスは、闇の館に向かうよう、御者に告げた。



薔薇図鑑
next


『薔薇図鑑』表紙へ戻る