カフェの辺りに人影はない。テーブルと椅子がきちんと整えられていて、コンテナ型の小さな厨房のドアに『close』の札が掛けてある。チャーリーはその扉を開け、ロックを外して窓を手前に引き出すようにして開け放つ。窓の部分は全開するとカウンターとなり、ここから顔を覗かせつつ、注文の品を作る仕組みになっている。
「ジュリアス様、テーブルや椅子、厨房の各々の設備の端に小さなメモリの入ったタグシールが付いてます。リーダーを近づけるとタグに記憶されたデータの読み取りが出来ますから、ひとつひとつ読み取って下さい。その時、備品に大きな傷みがあればチェックをお願いします」
 チャーリーは、ハンディタイプの読み取り装置をジュリアスに手渡した。
「わかった。見たところ特に傷みは無いようではあるな」
 テーブルの天板は艶やかなままだ。
「このテーブル、ものすごい高かったんですよお」
 チャーリーは丸い木製テーブルを撫でながら言う。
「オープンカフェの場合、金属製のものを使うのが普通でしょ」
「ああ、そう言えばそうだな。主星にあるカフェ・ド・ウォンの店外にあるものは皆、そうだった……」
「聖地にそんなチープなのは似合わんと思って、木製のちゃんとしたのを特注して、それを戸外用に特殊コーティングさせたんですよ。そやから見た目は木製のテーブルやけど、野ざらしも大丈夫。閉店を勧告された時は、このテーブルも無駄になってしもたなあ……とガックリしたけど、ずっと聖地で使って貰えることになって良かったなあ」
「そうだな。ここでなら気候も良いから長く使って貰えるであろう。さあ、チェックをしてしまおうか」
 ジュリアスは、さっそく一番近くのテーブルのタグシールにリーダーを当てる。
「そしたら、俺は厨房の器具の点検をしますね」
 
 チャーリーは、コンテナの中に入った。こちらも概ね綺麗なままだ。
「そら、そうやなあ。俺らの世界では一年経ったけどこっちでは一ヶ月くらいやし……。ちょっと給水パイプが汚れてる程度や……」
 チャーリーは、手際よく器具のチェックをしていく。念の為、交換しておいた方が良いと思われる部品を書き出すと、備品の在庫を確認した。
「カップの類も欠品無し、大切に使われてる……そやけど……これは……」
 白地に緑色でカフェ・ド・ウォンのロゴマークの入ったカップを手に取った彼は、「うーん」と唸った。もうここはカフェ・ド・ウォンではなくなるのだ。テーブルや厨房の施設そのものは聖地で買い上げられそのまま使われるが、名前の入った食器類は廃棄されてしまうのだろうと思うと切なさが込み上げてくる。
「中古の食器類だけ回収してもどうせ廃棄処分やしな……仕方ない……」
 溜息まじりに一応、個数だけは確認した後、チャーリーは厨房から外に出た。ジュリアスの方も指示されたタグの読み取りを終えていた。
「やはりどこにも傷みは無かった」
「ありがとうございますぅ。後、タグの読み取りは厨房の冷蔵庫だけですよね」
「ああ、このリストによると、それだけだ」
「冷蔵庫のタグは裏側に貼ってあるんです。二人で前の方に少し動かさんとアカン位置」
「よし、では」
 二人は連れだって冷蔵庫のサイドにある取っ手に手をかけた。
「せーのっ」
 とチャーリーが声をかける。少し移動した冷蔵庫の隙間からジュリアスが手を伸ばしてタグを読み取った。
「よし、完了〜。後は、戻ってきちんと書類を作って提出したら……それで終わりや」
 チャーリーはそう言うと、さきほど執務官から手渡された装置を見た。許可された滞在時間まで半時間ほどを示す時間が表示されている。
「まだ少し時間がありますよ。ジュリアス様、俺、コーヒー淹れます。正式な譲渡契約書はしてないし、まだココは俺の店やから問題ないでしょ」
 ジュリアスは何も言わずに頷き、「では、座って待っている」と外に出た。
 チャーリーは二杯分コーヒーの為の湯を沸かし、「またここでコーヒーを淹れることになるとは思わへんかったけど……」と寂しさの混じった独り言を呟く。コーヒーを淹れたチャーリーは、それをトレイの上に置き、外に出た。すぐ側のテーブルにジュリアスが座っている。
「やっぱりココに座ってはった。いっぺん聞こうと思ってたんやけど、なんで八番テーブル? 他のテーブルの方が、エエ場所やのに?」
 以前と同じテーブルに座っているジュリアスを見て、チャーリーが微笑みながら問いかけた。
 外の小道からカフェに入るとすぐ近くにあるのは一番テーブルで、中央にある噴水が見え、他の席に比べてより一層開放感がある。三人で連れだって来ることが多かったランディやゼフェル、マルセルは、いつも一番テーブルだ。二番から四番のテーブルは花壇のすぐ横にありパッと見ただけで明るく人を誘う雰囲気があり女性客がよく座る。五番、六番、七番テーブルは、花壇と反対側にある木々の間際の席になり、午後からは穏やかな木陰になるため、日焼けを気にするオリヴィエや、最初から居眠り目的のクラヴィスが好んだ場所だった。八番テーブルは、。店の一番奥に位置し、カフェ全体を見渡すのには好都合だが、厨房コンテナのすぐ横になるため、あまり良い席とは言えない。ジュリアスは改めてそう尋ねられ、少し考えるように視線を上に向けた後、「そうだな……たぶん。一番最初にここに来た時、私は例のあのチケットを手渡そうと思っていたのだ。そうなると、そなたは驚くであろうし、少し話し込むことにもなろう……他の客の目もあるから、なるべく店の奥の方がよろかう……そんな気持ちがあったのだろう」
「そんな配慮、してくれたはったんですね……」
 チャーリーは、テーブルの上にジュリアスと自分のコーヒーを置くと、当時と同じようにジュリアスの前に座った。
「以降、ずっとこの席なのは……」
 と言った後、ジュリアスが小さく笑った。
「?」
「そなたと話しをしたかったからだ」
「え?」
「金の曜日、執務の終わった時刻は、客もほとんどいなかったから、そなたはこうして私と一緒にコーヒーを飲みながら話すことが出来たが、たまに厨房に入らねばならぬこともあったろう?」
「ええ、まあ。たまには他のお客さんが来てオーダーの飲み物を作らなアカン事とか、器具の清掃中でどうしても手が離せんとか……」
「そんな時でも、この席なら、厨房に入っているそなたと出窓のカウンター越しに会話が出来るし、様子も伺えるからな」
「……そんなに俺と話が……」
 チャーリーの目がうるっ……とくる。
「人と、たわいもない事を話すことがあんなに楽しいとは思わなかった。そなたの口調も表情も本当に可笑しくてな。フィリップがそなたを好きになった気持ちは私にはよく判る」
「なんや、もお。フィリップもジュリアス様もちょっと自分が高貴なタイプやと思って、俺のカラダや財産やなくて、お笑い目当てやなんて!」
 ふくれっ面をしてそう言うチャーリーの目はまだ潤んだままだ。
「ははは、そうだな。お笑い目当てだな」
 ジュリアスは笑いながらそう言い、コーヒーを一口、飲んだ。チャーリーも。途絶えた会話の合間に小鳥のさえずり。静かな聖地の夕暮れ……。
「ホンマ、懐かしいなあ……そんな昔の事でもないのに。あの時は光の守護聖様と話ができるだけで嬉しゅうて。ジュリアス様が笑ろてくれはるたびに、胸がキュンとなって、ひ ょっとしたらこれって尊敬とか憬れと違って、恋なんとちゃうか……って思ったとたん、もう俺、どうしようもなくなって……、男やとかそういうこと以前に、相手は守護聖様、そんな相手に恋。成就なんてありえへんやろ……と、これでも必死に自分に言い聞かせたんですよ……」
 今更ながらの話をチャーリーは照れながら言う。
「そやけど、好きなもんは好きや、しゃーないやん。そんな時、チタングロニウム鉱山でのいざこざがあって、もしかしてもう二度と逢えへんと思ったら、どうしようもなくなって……当たって砕けろとは、まさにあのことやったなあ」
 チャーリーはしみじみとそう言い、ふう……と息を吐いた。ジュリアスもそんなチャーリーを見て、あの頃を懐かしむように微笑んだ。柔らかな沈黙がまた二人を包む。

「それにしても……誰も来ません……ね」
 コーヒーを半分ほど飲んだ所で、チャーリーが辺りを見渡しつつ言った。
「今日は閉店しているのだから当然だろう」
「いや……お客さんのことやのうて……。俺はともかくジュリアス様が来てはるんやから、守護聖様たちが……。それとも知らされてないんやろか?」
「そうだな。現在の光の守護聖はまだ執務を担えるほどの年齢ではないので、代行としてルヴァとクラヴィスが首座を務めているだろうが、彼らには私たちの訪問は伝えられているだろう」
「それやったらお顔くらい見せてくれはらへんやろか?」
「いいや。そっとしてくれているのであろう。逆の立場であったら私もそうする。それに聖地を去る時、私は、潔くありたい……と願っていたからな。本来ならば二度と上がることはない場所だ」
 ジュリアスは澄ました顔をしてコーヒーを飲み続ける。
「そうですか……。なら、聖地の庭園での午後のお茶、貸し切りで、あともうちょっと楽しみましょー、おかわ……」
 ジュリアスのカップは既にほとんど空になっている。チャーリーが二杯目のコーヒーを勧めようとした時、ジュリアスが、「……チャーリー、聖地を訪れたら感慨深いものがあると思っていたのだが……」と呟いた。
「え? 懐かしいてグッと込み上げるモンとかがおありなんかなあ……と思ってたんですけど、違うんですか?」
「まったく。庭園に来た時、ああ、ここは良い所だ、好きな場所だな……と思った程度だ」
「そりゃまた、ホンマに潔いお気持ちなんやなあ」
「いや、思うに、それは今の私が幸せだからだろう。聖地から降りて僅かに一年ほどで、私ほど恵まれた環境にいた者はかつていないだろう。職があり、最近では趣味の乗馬も申し分ない場所で始めることが出来た。リチャードやフィリップ、職場の者たち……良き友人、知人に囲まれ、そして何より愛する者まで側にいるのだから」
 サラリ……と何でもないようにジュリアスはそう言ったが、チャーリーの口は、既にへの字になって、うぐぐ……と嗚咽を堪える妙な音をたてている。
「アカン……泣く……泣く……」
 チャーリーは空を見上げて、尚もグェグェと喉を鳴らす。その様が可笑しいジュリアスは、ハンカチを差し出しながら笑う。こぼれ落ちそうになる涙を必死で堪えて、
「腹立つわー、ご自分だけ涼しい顔して。ジュリアス様ってなんでいつもサクッと俺の急所を突かはるんやー。あ、急所……言うたかて、アソコと違いますよ。いや、アソコも上手いこと突かはるけどもー」とチャーリーは言う。ジュリアスは差し出していたハンカチを引っ込めた。
「そなたはー。またそういうことを明るいうちから口にする!」
「二人きりやしエエやないですかー。それに暗かったら下ネタ言うてもエエんですか?
 そんなん偏見や。クラヴィス様が怒らはるわ」
 チャーリーは、肩からかけたストールの端で涙を拭いながら減らず口を叩く。
「クラヴィスは関係ないであろう。ええい……その奇妙な音の嗚咽は何とかならぬのか……私はカエルを愛した覚えは無いのだがな」
「カエルやて……ひど。もうええわ、泣いたるーーー、うぉーーん」
 チャーリーはそう言って吠えるように言うと、ジュリアスの手からハンカチをもぎ取り、それで顔を覆って泣いた。ジュリアスの言葉に対する嬉しさと、カフェ・ド・ウォン聖地店が閉店する寂しさ…その二つが入り 混じった涙だった。チャーリーはそうして三分間ほど俯いてグスングスンと鼻を啜っていたが、やおら顔を挙げ、「泣いたらスッキリした。ああっ、コーヒー冷めてもうたがな。淹れ直そ。ジュリアス様、二杯目どうですか?」とすっくと立ち上がった。
「……で、では、貰おうか」
「はいはい、少々お待ちくださ〜い」
 泣いていた時とはコロッと違う、足取りも軽いチャーリーの後ろ姿に、ジュリアスは肩を竦める。自分とはまったく違う思考回路と行動パターンに唖然とするばかりだ。
「だが、そこが好きな所でもある……」
 とジュリアスは呟いた。そして厨房の中で鼻歌を歌いながら、コーヒーを淹れているチャーリーを眺める。ふと顔を挙げたチャーリーと、カウンター越しに目が合った。ジュリアスが軽く微笑みかけると、チャーリーは、ニコッと笑った後、目と口をギ ュッとすぼめてパッと開き、顔面を思い切り使った投げキッスをした。
“いちいちリアクションの派手な、しようのないヤツだ……”
 と思いながらも、それがちっとも嫌ではない、そんなジュリアスの心を読んだかのように、チャーリーが、「ジュリアス様〜、俺が投げたキスは、ちゃんと受け取って、口に入れてモグモグしてくれはらなアカンやん〜。もうっ、投げキッスでのお約束やのに、何回教えたらマスターしてくれはるんや〜」と叫ぶ。
「聞こえぬな……」 とジュリアスは笑いながら返事をし、チャーリーから視線を外した。木々が作る大きな長い影がカフェ全体を覆うように伸び、温かなオレンジ色の夕暮れがそろそろ終わりを告げようとしていた。二杯目のコーヒーを楽しんでいる時間はもうあまり残されていなかった。
 

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