チャーリーが、嫌みなアマンダ公爵夫妻と離れた時は、すぐ後にいたはずジュリアスだったが、横を通り過ぎていくヒヒンジュリアスをもっとよく見るために、つい そちらに視線が向き、歩いてしまった。チャーリーとの間に出来たその数歩の隙間にあっという間に人が入り込む。とはいえ、まだチャーリーは見える位置にいたので、ジュリアスはもう一度、自分と同じ名の付いた馬を眺めた。間近で見る競走馬は、聖地で使っていた馬たちとは違う張り詰めた雰囲気があった。クラヴィスアマンドとの間には先にむずかっていた馬が戻っており、ヒンジュリアスは、今は落ち着いて堂々と歩いている。アマンド公爵は白ではなく芦毛……と言った馬体も、間近で見ると艶々としており、頭から胸部にかけてはやはり誰が見ても白い美しい馬だと思えた。

「失礼ですが、貴方は先ほどウォン氏と共にいらした方では?」
 ふいに背後からそう問われたジュリアスが振り返ると、上質のクロックコートで正装した極めて上品そうな男が立っていた。端正な……と言う言葉がピッタリと当てはまる精悍で爽やかな笑顔だ。
「ええ。秘書のサマーと申します」
「ああ、秘書の方でしたか」
 と男は言ったが、先のアマンダ公爵夫人のような見下したような感じはしない。
「私は、フィリップ・フィナンシェと申します。フィナンシェ製薬の代表です」
 小さく頭を下げた彼は、すぐに「ヒヒンジュリアスの応援にいらしたのですね。良い馬に仕上がりましたね。うん、美しい馬だ」
「フィナンシェさんの馬もこのレースに?」
 パドック上にいるということは彼もまたどれかの馬のオーナーなのだろうとジュリアスは思った。
「いいえ、私は競走馬のオーナーになるよりも、生産者側になるほうを選びました。主星杯には、ウチのファームの出身馬が出ているので応援に。本業の会社勤めよりも、ファームで馬の世話をしている方がいいんですが、なかなか引退させて貰えませんよ」
 と肩を竦めた彼は、どうみてもジュリアスと同年齢で、後数十年は引退など叶いそうにない雰囲気である。その後、二人はしばらくパドックを歩いている馬について言葉を交わした。 フィナンシェは、馬に対する目線がジュリアスと似通っており、短い会話の中、まさに二人は意気投合したのだった。
  
 その様子を人混みの中、二人の所にまで辿り着けず身動き取れない状態のチャーリーが、悔し涙を流さんばかりに見ていた。会話の途中で、ジュリアスが明るい笑顔を見せた。そのとたん、チャーリーの心の警報機が鳴り始める。
“エエ顔、エエ顔、エエ顔〜、そやけど危険、危険、危険ーーー”

 二人は、馬を指さしながら何かを語り合っている。そして、フィナンシェが、ポケットから何かを取り出してジュリアスに手渡した。
“名刺かなんかやな。後で連絡くれとか言うワケや。そんなモン渡してもアカンで〜、俺が破って捨てるぅぅ〜、ええい、頼む、通してくれ〜、ジュリアス様の側に行かせてくれぇぇ〜”
 
チャーリーは、隙間を見つけては「失礼」を連呼しつつジリジリと割って入り、後もう少しでジュリアスの側に……というところに近づいた。そのとたん、「それでは、失礼……」という声がし、チャーリーはホッとする。
“あ……なんや。以外とアッサリさんやな。ホンマにただの紳士さんやったんかも。アカンな〜、俺。ジュリアス様に声かけてくるのは皆、恋のライバルみたいに思てしまう……”
 と素直に反省しかけたチャーリーの目の前で、フィリップ・フィナンシェは「またお逢いできるのを心待ちにしていますよ」と言い、ジュリアスの手に固く握りしめて去っていった。
「だあーーーーっ、ぜぇぜぇ」
 最後の人の壁を押しのけてもの凄い勢いで飛んできたチャーリー。
「ジュリアスさまーーーー、あの、男、誰ですぅぅぅ」
 涙目になっているのが自分でも判るチャーリーは、思わずジュリアスの手に残された名刺を奪ってしまった。
「げ……フィリップ・フィナンシェやとぉぉーー」
「フィナンシェ製薬の代表者だと言っていた。そなたとも面識があるのかと思っていたのだが?」
 何事も無かったかのようにジュリアスが言う。いや、実際、何事も無かったのだが。
「フィナンシェ製薬の社長です。薬だけやのうて化粧品とか食品とか手広くやってます。ええっと先代がちょっと前に亡くなって、彼が社長になって……何かのパーティかなんかで一度、挨拶くらいはしたかも知れません。そうか……どっかで見た顔やと思たら……フィナンシェの……」
「物腰も穏やかで、知的な感じの人だった。競馬の知識も豊富で……」
 ジュリアスは、彼と交わした会話をザッと説明した。
「……それで、私が乗馬が趣味で、馬が欲しいことを告げると、ファームに一度来ないかと誘われたのだ」
 ジュリアスの話した内容は、ごく自然な馬好き同士の会話でチャーリーが懸念するようなものではなかった。が……。
「うふん……。ファーム経営もしてはったんかー。ヒヒンジュリアスのことを良う言うてくれはったんは嬉しいことや……そやけど……」
 チャーリーは、そこで何かを言い淀む。小さなジェラシーとはまた別のものを感じたジュリアスは、チャーリーの次の言葉を待つ。

「おじいちゃんの代の事ですけど……ヒヒン軟膏が競馬界で認識された頃、フィナンシェ製薬からコピーされた軟膏が発売されたんですよ」
 ジュリアスの記憶の中で、チャーリーの祖父との出逢いが蘇る。
「成分はヒヒン軟膏と全く同じ。ハッキリ言うてパクリです。けれど違う点はたったひとつ。ウチには正真正銘総ての材料が天然もんやけど、あっちは合成。怪我に対する効き目は、科学的にはまったく一緒。しかも大量生産ができるせいで値段は、ヒヒン軟膏の半値で発売されたんです。発売当初はシェアが逆転しました。ところが使ってるうちにやっぱりヒヒン軟膏やないとアカンで……と再認識され、今ではウチがトップを取り返してます」
 ジュリアスは、頭の中でヒヒン軟膏の市場に於けるシェアは確か6割程度だった……と思い出す。
「やはり効き方に違いがあったのか? 成分は同じでも?」
「ええ。人間にはそないわからへんのやけど、馬には判ったみたいですよ。実験は同じ結果でも、怪我の治癒には、個々によって+アルファの部分がありますよね。精神的作用というか。ヒヒン軟膏の方は塗った後、六時間後くらいに血中に溶け込んだ成分のせいで馬がかなりリラックスするんやそうです」
「ああ、そうだ。馬は元々眠りの浅い動物だが、ヒヒン軟膏を使った日は、よく寝ていた」
「へええ、ジュリアス様もそこらあたり実感してはったんですねえ……。まあ、そういうことが、おじいちゃん の代にあって、どっちがパクったかとかゴタゴタその後も揉めてて、親父は フィナンシェ製薬を目の敵みたいにしてましたねえ」
「訴訟はしなかったのか?」
「親父は、結局、もうほっとこかー言うて」
 大らかな……と言うよりも大雑把なチャーリーの父親の性格が伺えるようなエピソードだ……とジュリアスは思う。
「何しろ向こうは、主星大貴族のお家柄やから、訴訟を起こしても裁判に勝てる見込みが無かったんですけどね」
「他社の製品のコピーをしても?」
 ジュリアスの眉間に皺が寄る。
「ええ。同じ天然ものを使ったとあれば完全にコピーですけど、合成材料ですから独自に開発したと見なされますし、値段も半値やから、むしろ経済的には利用者に貢献したことになります。裁判沙汰にして勝ったとしても、乗馬や競馬の関係者は貴族層が多いので、いろいろと……。親父は割と強引な手も使って成り上がりそのまんまの経営方針なとこがあったんです。そやけどヒヒン軟膏だけは、俺の良心や、綺麗なままにしたい、 またシェアが逆転し、ウチの方が良え品やと証明されたようなもんやから、もうええんや……と言うてました」
 このエピソードには、先代らしい結末がついていたのだな……成り上がりだの下品だのと言われた先代ウォンだが、こういう所がザッハトルテ始めとして回りのスタッフや社員たちからはとても愛されている所以かも知れないとジュリアスは改めて思う。

「ウォン&ヒヒン製薬の古参の者たちは、未だにフィナンシェ製薬に敵対心をもってる者もいますけど、俺は別にそこまでは。優れた品には二番手、三番手の品が出てくるのは当然のことやし、ウチもシェアトップに胡座かいてたらアカンでー、と思うだけですよ」
 そう言うとチャーリーは、フィリップ・フィナンシェの名刺をジュリアスに返した。
「すみません、ジュリアスに誰か言い寄ってるんやとばっかり思うて取り乱して。馬の購入の事、ここで知り合ったのも何かの縁やし、俺の事は気にせずに決めて下さい」
“……フィリップ・フィナンシェみたいな男前を、ジュリアス様に近づけたないけど、俺も大人や。それにジュリアス様と俺との関係は一朝一夕のもんやあらへんのやし。なんたって守護聖様やったジュリアス様を口説き落とした俺、もっと自分に自信を持ってええはずや……ん……たぶん”

 些か頼りなげに自分に言い聞かすチャーリー。そんな彼の心中を察したようにジュリアスは、にっこりと微笑み「ありがとう、チャーリー」と言った。

“うわあ〜っ、必殺俺だけに見せるジュリアス様至上の微笑み攻撃〜”

とたん上機嫌になる判りやすいチャーリーだった。

 

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