「あの日、昼過ぎから私は少し辛くなっていた。降り続く雨が人恋しい気分にさせたのだろう。……いっそ『鍵』を使って出掛けようとした。だが何故かずっとお前の事ばかりが心に浮かぶ。やがてお前の感情までもが私の心に入り込んできた……いくら考えまいとしてもお前の事ばかりが気に掛かる……。気持ちを落ち着かせようと私はこの古塔へと逃れた」

「プロキオンの死がそなたに影響したのだな……急なことだったので私は随分、動揺した」

「一人静かにやり過ごすはずだったのに、お前が突然やってきた。気が動転した。お前を見るのが怖かった、心の見透かされてしまいそうで。お前が愛馬の死を告げたことで合点がいった。馬の感情も自分の心に入り込むのかと笑えたが、あの馬はお前の近くにずっといた者だ。その死に際、お前の事を強く思ったのだろう……。逢いたいと……。馬の思いと自分の感情が交錯したのだ。そして私はお前を求めている自分に気づいた。強く逢いたいと願ったのはプロキオンの思いだけではなく、私自身の本当の気持ちも入っていたのだ。それが恐ろしいことのように思えた。案の定、お前を押し倒した……」

「そなたの私を求める気持ちが、私を呼び寄せたのかも知れない」
 昔からそのようなことは何度かあった。用があってクラヴィスの元に行かねばと思っていると向こうからやってきたりするのだ。子どもの頃の事を思い出して少しぼんやりとしているとクラヴィスがふいに振り向いた。
 
「私に対する同情からお前があの日……手を差し伸べてくれた事の礼と詫びを言わねばとずっと思っていた。この五年……十一月をさぼと苦しむことなく、鍵を使うことなく過ごせたのはお前のお陰だ。長い間、すまなかった」
 クラヴィスが視線を床に落とす。頭をやや下げたようにも見える。

「そなたは十一月が来てももう私を必要としない……」

 私はクラヴィスに問うではなく、ただそう呟いた。自分の感情が置き去りにされた気がした。
 ……何故だ? 私は、毎年の体調不良からクラヴィスを助けてやるために、儀式のように肌を合わせたのではなかったのか? その行為の中には大した言葉も、感情の起伏も無く視線すら合わせたこともない。私には……僅かばかりの……快感だけしか無かったはずではないのか……。
 
 私はクラヴィスを見上げた。クラヴィスの顔は、言ってしまいたいことを告げたせいか、あるいは、毎年苦しめられていたものに開放されたからか、どこか清々しいものがあり、それがいっそう私を苛つかせた。私は俯き、膝の上に乗せた手を組んだ。この五年、毎年、クラヴィスの上に滑らせた手、ひんやりとしたそれが仄かに暖まっていくその感触……ジン……と痺れたように指先は震えて……。私は嫌ではなかった。クラヴィスを癒すための儀式のようなものだと自分に言い聞かせていたが、決して……嫌ではなかった。私もクラヴィスを求めていた。鍵を使った時のような虚しさが無かったのは……心が求めていたからなのか……。そなたは十一月が来てももう私を必要としない……のだな……。

 私の呟きととその後の沈黙をクラヴィスはどう受け取ったのだろうか……。クラヴィスがいつの間にか私の横に座っていた。

「ジュリアス、お前が嫌でないのなら……やはり頼めると有り難い。体はよくても心がお前を求めているから」

 クラヴィスが結論を言った。それは、私の気持ちの答えでもあった。いつもは言葉足らずのクラヴィスに押されている……だがそれもまた悪くなかった。私は黙ったまま、例年のようにクラヴィスの肩を押して寝かせ、足元に置いてあった灯りを消した。ふいに闇が私たちを包む。

 クラヴィスの頬に触れたはずの指は位置がずれて、彼の首筋に。そこから頤(おとがい)に。私はクラヴィスに顔を近づけた。カティスの残していったワインの香りがした。今宵の、いつものクラヴィスらしからぬ言葉数の多さは、酒の助けを借りたからか……と思うと、この男に対する感情の中に可愛らしさが生じた。そう言うとクラヴィスはまた嫌な顔をするだろうと思うと私は少し楽しくなった。去年までは感情を押し殺して、義務的に動かしていた私の指は、水鳥の羽根のように軽やかになってクラヴィスの上を滑っていく。ふいにクラヴィスが私の背中に手を回した。それもまた初めてのことだった。私たちはしばらくの間、そうして互いを触れ合っていた。突然、外で何かがカサカサと枯葉を踏んだような音がした。
「冬じたくを始めた小さな動物たちの足音だ……夜行性の……今年は冬が早く来そうだ……から……餌になる木の実や虫を集めて……いるのだ……ろう」
 クラヴィスが息を継ぎながらそう言った。
「ああ……私の馬たちも冬毛で覆われ始めて……ふさふさと……している。今年いつもよりそれが……早い」
 私の声は少し掠れていた。この最中に息を乱してまで話すこともあるまいに……私たちは子どもの頃のように同時に小さく笑った。ふいにクラヴィスに対する感情が私の中で湧き上がった。物語の中にあるような甘く愛おしいというものではないが、長い間傍らにある気に入った愛用品に触れる時のような安堵感に似ている。クラヴィスもまた私に対してそんな風に思っているのだろう。 外の気配が消え、私が再び触れ始めると、クラヴィスが私の名を呼んだ。求めているのだと判った。私もまたクラヴィスの名を呼 び、私たちは重なり合った。私の動きのせいで、 こつん……と長椅子の肘掛けにクラヴィスの頭が当たる音がした。

「もう少し……丁寧に扱…え」とクラヴィスが文句を言った。
「今年のそなたは……うるさい」
 と私は言ってやった。五年前の仕返しだ。クラヴィスは「ふん……」と言ったまま顔を逸らした。息さえもしてはならぬように固く唇を閉じていた去年までとは違い、私たちは時折、声を漏らす。 十一月の……この夜の静謐さを邪魔せぬ程度に微かな微かなものだったが……。

 

END


 

■あとがき■