しばらくの間、そうして俯いていると鐘が鳴り始めた。音楽会の始まりを告げているようだった。ここにこうしているのも限界と思われ、立ち上がって行こうとすると、
私の後方やや離れた所に控えていた墓守が静かに近づいてきた、そして、私の前にひれ伏し、
「セレスタイト様……、お帰りなさいませ」と言った。
「な……にを……」
動揺する私に、墓守が顔を挙げ、微笑んだ。
「ここにいらした時から、もしや……と思っておりました。そして、あの花をアンジェリカと仰いました……。クラヴィス様は、いつの日かセレスタイト様がお戻りになるだろうと、遺言を残されました。それらしき人物が現れたとき、あの花の名を尋ねよと。花の名は墓守にしか明かされておりません。私も先代から決して他言せぬように言われその名を引き継ぎました」
「花の……名など誰でも知っていよう……」
私は声が震えそうになるのを堪えて答えた。
「いいえ。小さな野花の名を知る者は多くありますまい。私も知りませんでした。そして、知っていたとしても……あの花は、クラヴィス様の故郷ヘイヤでもスイズでも、アンジェリカという名ではありません」
「それはどう……いう?」
クラヴィスははっきりと私にアンジェリカと教えてくれたし、何度もその花の名をそう呼んでいた。
「クラヴィス様ご自身があの花にアンジェリカと名付けられたのです。御生母様の御名前だそうです」
「ああ……」と唸るように言ったあと、私は額に手を置いた。幼かったクラヴィスは故郷の野に咲いていた花に母の名を付けたのだ。そして……父の顔が思い浮かぶ。父は知っていたのだ。クラヴィスが、そう名付けた気持ちを……。だから刈らないでやって欲しいと庭師に頼んだのだ。
「セレスタイト様、クラヴィス様の御遺志をお伝えしとうございます」
「クラヴィスの遺志?」
「はい。クラヴィス様の死後、私ども墓守は、クラヴィス様の二つの御遺志を継いで参りました。ひとつは、先の花のを伝えセレスタイト様をご確認して、心よりお帰りになられた事をお喜び申し上げる事。そして今、ひとつは、これより新たに次代の教皇をお引き受け下さる意志がおありかどうかお尋ねすること」
「私に……教皇に?」
「はい」
私は視線をアンジェリカ……に移した。緩やかな風に僅かに揺れる小さな花の中にクラヴィスの心を思う。やはり、私は教皇の式章を受け取ることはできない。できようはずもない。
クラヴィスはもう何代も前の教皇なのだ。教皇庁の他の者や、各国の指導者たち、そして何より民の気持ちもあろう……。しばらくの後、私は墓守に言った。
「クラヴィスの気持ちは受け取りましたが、教皇の任は辞退いたします。教皇の世襲制はクラヴィス自身が廃したこと。学士の中から真摯に学び、優れた者が次代になるようにと。心から民の為に尽くせる者が教皇にならねば、と
」
「ですが、聖地の……、光の守護聖様であらせられた方の教えを、誰であろうと皆、頂戴したく思っているはずでございます」
「いいえ。教えなどは無いのです。聖地を知ってはいる。ただそれだけ。私は光のサクリアをしばらくの間、預かっていた……だだそれだけです」
「どうあってもお引き受けくださることは叶わないのですか?」
「父と母、それにクラヴィスの眠る場所に墓参する……その願いは果たされました。クラヴィスは私に戻る場所を残しておいてくれた、その想いだけで充分です」
私はそう告げて、跪いたままの墓守に手を差し伸べて立ち上がらせた。
「当時の墓守は、良いお返事が頂戴できない時はいかがすれば宜しいでしょうか? とクラヴィス様に尋ねたそうです。クラヴィス様は、たぶんそうなるかも知れないが、その時は、立ち去られるまで、ただ静かに控えておればいい……と仰ったそうです」
「クラヴィスめ、判っているならそんな遺志を残さずとも良いものを……」
私は笑った。笑いながら、少し困ったような顔をして、頼りなげに私の後を追っていた幼い日のクラヴィスを思い出していた。 「音楽会が始まる時刻です
ね。もうお暇しましょう」
「セレスタイト様……どこかへ行ってしまわれるのですか? 今宵だけでも教皇庁に留まっていただく事は出来ないのですか?」
「すぐに旅立つ予定です。尋ねたい場所が多くあるのですよ。何しろ……随分と久しぶりなので」
私が静かに笑うと、墓守は私の思いを汲んでくれたようだった。
「……では、ぜひいつでもここにおいでくださいませ。ここはセレスタイト様のご実家……なのはもちろんですが、教皇庁は誰の家でもあるのですから」
「そうでしたね。……遠い昔のクラヴィスの遺言をここまで継いで下さったこと、心より御礼申し上げます。ありがとうございました」
「……どうかお健やかであらせられますよう」
墓守に頭を下げた後、私はそこを後にした。歩きながら、空を見上げる。
そしてジュリアスとクラヴィスの中から離れたサクリアが、、新たな宇宙への礎となる為、旅立ったことに想いを馳せた。今ある宇宙がその時を終えつつあり、来るべき移行を待っている……聖地にいた時は少しは身近に感じられたその事が、今の私にとっては、絵空事のようにしか思えない。
クラヴィス……私はこれから大陸横断列車に乗ってダダスに向かうつもりだ。
ダダス大学にはルヴァが総長時代に建てた歴史館があると聞いた。そこで、私が留守をしていた時代の事を学んでこようと思う。それから、フングまで行こうと思うんだ。東と西を分かつ大山脈の麓に……。あの辺りも
、私の知っている何もない荒野ではないらしいな。大きな工場が幾つもある大都市になっているらしい。海沿いのジュリアスたちが辿り着いた村は、今では大きな港町になって、東への交易船が
頻繁に出ているらしい。そこから船に乗って、東へ……。オリヴィエ、オスカー、そしてジュリアス……。あの者たちの生きた所を巡ってくるよ……。
彼の地でも、彼らが遺した何かに触れることができるだろう。
クラヴィスに向かって心の中で語り終えると、その時、また鐘が鳴った。楽師たちが指定の位置に付いた鐘だろう。大聖堂の横を過ぎる時、聞き覚えのある旋律が流れてきた。リュミエールが、まだ小さな外交官と呼ばれて演奏会に参加していた頃に創った静かな小曲だった。場所も建物も規律も変わらぬこの教皇庁の中で、数百年の時を経て、それもまた大事に継がれてきたのだろう。
私も、彼らの遺志を継ぎながら、そして、これからは遺すものを築きながら生きていこう……、頑張るよ、クラヴィス……お前がそうしたように、私も精一杯に生きていこう……。
終
■あとがき■ |