さて、どうしたものか……と思いながら、ベリル公は、ルヴァの方に近づいていた体の位置を元の場所に変えた。
「君はもうルダには帰らぬのかね?」
「今の所は。職も友も、故郷も……両親も失いましたから」
「教皇庁で執務官を続けるつもりなのだね?」
「いいえ。リュミエールたちの様子が落ち着いたら、私は執務官を辞め、ダダス大学に職を得るつもりです」
「教皇庁の執務官の職を捨てる……と言うのか? 君と教皇様やリュミエール王との関係、それに文官としての才能を思えば、年齢さえ重ねれば、かなりの地位が望めようものを? 平民初の枢機官にな れる可能性もある。最高の名誉職だぞ? 教皇庁ばかりではなく、スイズの国政に参加することも出来よう。今から出来上がっていく新しい国政なのだぞ? 大臣にもなれるかもしれない」
 野心は無いのか? とでも言いだげな口ぶりでベリル公がそう言うと、ルヴァは首を横に振った。
「政(まつりごと)は、苦手なんです。教皇庁もスイズも新しく変わろうとしています。それだけに非情にならなければ乗り越えられないこともあります。現実に目を背けては前に進めないのです。リュミエールもクラヴィスも、互いにそのやり方は違っても、民の抱えている問題を受け止めるだけの器があります。私にはそれがない と思います」
「けれど、その問題を解決する術を考えられるのではないのかね? 君なら」
「スイズがまだ暫定政府だけで機能していた時、リュミエールに求められて、幾つかの草案を出してきました。良い案だと認められたこともありますが、実際にそれを動かしていくのは、多くの人々です。地方の長であったり、民ひとりひとりであったり……。その過程でどうしても予測とは違うことが発生する。私は問題があれば、そこでひとつひとつ解決して行かねば……ついと思ってしまうのですが、それでは、いくら経っても事が収まらない」
「理想と現実の間隙……か。私もダダスの国政に参加している身だ。嫌と言うほど知っている。確かに全てを納得のいくように収めることは難しい。切り捨てねば進めぬことも多い」
 若かりし頃、自分もルヴァと同じように思っていたことがあったな……とベリル公は思う。だが、次第に慣れるのだ、そんなことにも。確かに今まで国政に関与して、不正はせず、正しく生きては来た……そう、出来うる限りは……、と。
「私の夢は教鞭を執ることでした。文官になったのは、故郷の為です」
「そうであったな。その話もフローライトがしていた。鉱山の採掘権を村に取るためにと。もうその必要は無くなってしまったのだね……お気の毒なことだった」
「幸いにもダダス大学からは、末席の研究員ならばいつでも開いているとお返事を戴きました」
「首席卒業者は望めばいつでも研究員になれるのであったな。私もその権利を持っているよ」
 ベリル公は、目の前にいるルヴァを改めて見つめた。
“彼ならば、政治の世界よりも、やはり学問の世界の方が相応しいだろう。ダダス大学で職を得たあと、コツコツと研究を重ね、いずれその道で一番の教授となろう……そして、 その人格の良さから、自然と皆に推されて、学長の地位に登ることもできよう……”
 ベリル公は、そんなルヴァの傍らにフローライトがいる所を思わず想像してしまう。慌てて、ルヴァから目を逸らしたが、その想像は脳裏から消えない。
“フローライトが本当に愛する、この誠実な青年と結ばれて……、例えば冬の夜、暖炉に側に集まり、彼は本を読んでいる。フローライトは、赤ん坊を眠らせるために竪琴をつま弾いている。そして、私は孫のために 、音楽に合わせて、ゆっくりと揺りかごを揺らしてやるのだ……。なんと穏やかで優しいひとときだろう……。夢のようだ。あの軽薄な男を婿として迎え入れたなら裕福なだけの、心のこもらぬ冷たい関係の中で、フローライトの笑顔など滅多に見 られぬことだろう……”

 べリル公の様子がおかしい、俯いて、黙り込んでしまった彼に、ルヴァは慌てて立ち上がった。
「あの、大丈夫ですか? お加減でも悪くされましたか?」
「夢か? はたして……夢か?」
 側にいるルヴァにも聞こえるか聞こえないかの小さな声で、ベリル公はそう呟いた。
「え? 何と仰いました? 執事さんをお呼びしましょうか?」
 ルヴァは本当にベリル公が気分が悪いのだと思って、その背中に手をかけ、顔色を確かめるように覗き込もうとした。
「いや……大丈夫だ」
 そう言われてもルヴァは座らず、立ったままで、頭を下げた。
「申し訳ありませんでした。突然来て、突拍子もないことを長々とお話ししてしまいました。私は帰ります。どうか……フローライトさんによろしくお伝えください。お幸せに……と」
「待ちなさい。どうか、今一度、座って」
 ベリル公は強い口調でそう言うと、ルヴァの腕を掴み、半ば、無理矢理、座らせた。
「悪かったね。少し……気持ちが高ぶってな。君がどんな人物かはフローライトが楽しげに話してくれたので知っているつもりだった。だが、死んだと思っていた君が突然、今になって現れて……私は心が定まらなくなってしまった」
 ベリル公は、そこで大きな溜息をついた。
「ルヴァ君、どうか当家に婿に来て欲しい」
 目の前の靄が晴れていく……。そのたった一言で、ベリル公は心の中に青空が拡がっていくのを感じていた。
「えっ、ええええっ」
「そうだ、それが一番いいのだ。私はうっかりしていたよ。フローライトが何故、君に、自分に恥じぬ生き方をしていたら迎えに来て欲しいと、言ったのか。己に恥じぬよう……それは当家の家訓なのだ。代々の当主はそれを守って生きてきた。だからこそこの小領であっても 、尊敬され、大貴族と列せられるほどの扱いも受けてきたのだ。私もフローライトも、あやうく道を踏み外すところであった。持参金欲しさに、あんな男を婿に取れば、この後、どれ程の悔いが残ったであろう」
「でも……私はただの平民で、もうじき執務官でさえなくなって、ダダス大学の研究生にしか過ぎないのです……よ?」
「そうだよ。それでも良いのだ。当家の財政は厳しく、一部分の領地を手放さねばならぬかも知れない。せっかくの大富豪の息子との婚約を寸前で蹴って、平民を婿にしたのだと、世間は笑う だろう。けれど 、フローライトはそんなことまったく気にしないであろうよ。そして私も」
「けれど……」
「何だね? 此の期に及んで尻込みするのかね? やっぱり嫌なのかね?」
 ベリル公は、口を尖らせる。本気で気を悪くしていないことは目で判る。戸惑っているルヴァをからかうような口調だった。
「どんなに喜ぶだろう。フローライトは。久しく見られなかったあの笑顔が、また見られるのだよ」
 それこそが本当にかけがえのないことなのだと、ベリル公は胸を張った。
「あの〜、本当の本当に、えっと、その……でも、私は貴族のお家のことは何も知らなくて、領地内のお仕事も何も判っていなくて」
「ああ、いいのだ、いいのだ、領地内のことは。まだまだ私も若いつもりだからな、隠居などは当分せんよ。少しづつ覚えれば良いのだし、フローライトも領地内の管理は手伝ってくれている。君はダダス大学で研究員として頑張ってくれれば。なぁに、王都とここなら、そんなに遠くはないんだから。そうだな。今はとりあえず婚約ということで、正式な結婚は、研究員から教員職に上がった時にでも。君なら二年もあれば上がれるだろう、うん、そうだ、二年後なら、頃合いの時期じゃないか。こうしちゃおれんな。あの馬鹿息子に二度と来るなと文を送らねば……もちろん慇懃無礼な文面でな」
「は、はあ」
 最初この部屋に入ってきた時のベリル公の印象は、深い憂いを含んだような眼差しの何かを考え込むような感じであったのに、今はまるで違っている。 思いついたことをはきはきと畳みかけるように話す様は、楽しい事を話す時のフローライトとそっくりだった。
“本当に良いのだろうか……きっとこの先、ご苦労される事は間違いないのに……”
 ルヴァは申し訳なく思うと同時に、やはり嬉しさが込み上げてくる。
「ベリル公爵様、ありがとうございます」
「父上と呼んで構わんのだ、父上と、な。ぜひそう呼んでくれたまえ。すぐに客間を用意させよう、久しぶりに楽しい夕餉になるな」
 心から嬉しそうにベリル公がそう言った時、馬の嘶きが聞こえた。馬車を止める御者のかけ声と共に。
「フローライトが戻って来たようだな!」
「あの……お出迎えを、私もご一緒に」
 ルヴァは立ち上がった。フローライトに逢えると思うと浮き足立つ。
「うむ。いや、待て待て。ふふふ、驚かせてやろうぞ、ルヴァ君。君はちょっとここで待っていてくれたまえ。そうだな……、ほら、そこで」
 ベリル公は、ポーチへと続く窓際に置いてある小さな椅子を指さした。
「カーテンの陰に椅子を動かして。そう、見えないようにして、隠れていてくれ」
「こ、こうですか?」
 少し出窓になっていて、カーテンと窓の間が空いている。そこにルヴァは椅子を移動させた。
「そうだ。フローライトは視察から戻ると、まず取るものもとりあえず領地内の様子を私に報告するのだ。忘れてしまうといけないと言ってな。ちょっとそれを聞くだけ聞いたら、ここに誘い込むから、私が咳払いをしたら、そっと出て来て、背後からフローライトを驚かすのだぞ。あっはっはっは、フローライトめ、腰を抜かして驚くぞ、いや、ゆかい、ゆかい。では少しの間、待っていてくれよ、ルヴァ君」
 笑いながら去っていくベリル公の様子に、やはりフローライトとそっくりだ……と思うルヴァだった。


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