神鳥の瑕 第二部 OUTER FILE-01

秘 密 の 名 前
 

  
 スイズ王城での暴動から数日……。
 リュミエール以外の王族たちは失脚し、彼らの腹心であったものも同じくして政権から退くことになった。元から国政に携わっていた貴族たちの中には、志のある者もおり、そういった者たちと、サルファーやスモーキー、ジンカイトたち が民の代表として、共に新時代を築いてゆくべく、暫定政府が置かれることになった。
 そのことを早急に、教皇庁を始め、各国、スイズの各地方にも通達を出さねばならない。リュミエールは、草案を信頼の於ける文官と、ルヴァの力を借りてまとめ上げ、後は最終報告である官僚名簿に、国政に携わる者の名を記すだけになっていた。
 リュミエールは、その文書を書き上げようと、鉱夫や農民が集っている部屋を訪問していた。北部や南部からやってきた農民のほとんどは自分たちの村へと引き揚げたが、大男やサクル親子をはじめとする鉱夫たちは、まだその 処分や行き先が、教皇庁によって決定せず、壊された城門の補修を条件に、スイズ城での寝泊まりを許して貰っているのだった。

 おおまかに国を四つの地域に分け取り決めたそれぞれの代表の名をリュミエールは、記していく。北部代表のサルファーや、南部代表としてのジンカイトの名もそこにある。そして、最後の空欄に…………。
「後は教皇庁・西の管轄地・スイズ委託鉱山総監督……。スモーキー、貴方の正式名をお教え下さい」
 と、リュミエールは、ごく普通に、当然のように言った。だが、スモーキーは、一瞬、目をギョロリ……と見開いた後、黙りこんだ。
「あの……、お名前を頂戴できますか?」
 リュミエールは、ペンを持った手を浮かせたまま、再度、声をかけた。
「スモーキー……だ」
 と、彼は憮然として言った。
「それは鉱山での通り名だろ? スモーキー、とだけ記すのは、いくらなんでも何かしっくり来ないぜ?」
 そう言ったのは、サルファーだ。
「家名だけでも……」
 リュミエールは、スモーキーの過去の経緯から、彼が本名を使うのを快く思っていないことに気づき、控えめに言った。
「……………………クリソプレイズだ」
 スモーキーは、観念したように小声で答えた。
「何でぇ、まっとうな立派な名前じゃねぇか。やっぱり貴族っぽい家名だよなァ」
 と、大男が冷やかしただけで、他の者は、別にどうといった反応もしていない。

 “ジェイド公領の中に、クリソプレイズ村というのがあったな。静かな良い所だ。あの辺りが、かって彼の家の領だったところか……”
 と、元ジェイド武官だったジンカイトは、そう思うが、スモーキーへの気遣いもあって口には出さない。
「では、スモーキー・クリソプレイズ……と記しますが、それでいいのですね?」
 リュミエールは、念を押した。スモーキーが、頷こうとしたその時、部屋の扉が、そっと開いた。側仕えや女官よりは身分の低い、城の下働きをしているといった風情の ふくよかな年配の女が顔を覗かせた。
「掃除に来たのかい? ならもう少し待ってくれないか? 今、リュミエール様がいらしてるんだ」
 扉のすぐ近くにいたジンカイトがそう言った。
「いいえ、お掃除ではございませんのです。あの……このお部屋に、私の知っている方がおられるのではと思って……。昨日、たまたまチラリとお見かけして、もしや……と。もう何十年もお逢いしていないので、勘違いかも知れませんのですが……」
 女は、何度も頭を下げながらそう言った。
「ふうん……。名前はなんて言うんだい? 出掛けている者もいるから、この中にいるといいが……」
 ジンカイトは、彼女のために少し身を退いて、部屋の中が見渡せるようにしてやった。その時、大男の陰に隠れている形になっていたスモーキーの姿が、彼女の目に映った。
ぼ、ぼっちゃま! もしや、ぼっちゃまじゃありませんか?!」
 女は、そう叫ぶと口元を両手で押さえて、今にも泣き出さんばかりになっている。
 リュミエールを含め、部屋の中にいた全員が、誰のことだろうとキョロキョロと互いの顔を見渡す中で、一人、固まっているスモーキーがいた……。
「ば……ばあや……かい?」
 スモーキーは、恐る恐ると言った感じで、彼女の側に歩み寄った。
「ええ、ええ。ばあやです。ばあやですとも! ああ、やっぱり、ぼっちゃまだったんですね。昨日、この前の廊下を掃除していた時、髪をこう……掻き上げなさっている仕草で、この部屋に入って行きなさったのを見て、ぼっちゃまの癖にそっくりだと思って、お顔を見たら面影があったので……。思い切って訪ねて良かった……。本当に……こんなところでお逢いできるなんて……」
 彼女の目から涙が溢れる。四十男のスモーキーを『ぼっちゃま』と呼ぶのは些か滑稽ではあるのだが、部屋にいる者たちは、彼の過去の事を知っている者も多くいたし、詳しい事情までは知らぬ者でも、彼が貴族の出であり、何かの事情で鉱夫となったらしい事くらいまでは知っている。かっての乳母だったらしい女と、二十年数年ぶりの再会に、皆はじんわりと感動している。サクルに至っては、既に涙が頬を伝っている。
「ばあや、ずっとスイズ城で働いていたのか?」
 スモーキーは、鼻先が、じぃ〜んと来つつもそれに耐えながら尋ねた。
「はい。あの後、縁あって、城の下働きに入りました。まだ私も働ける歳でしたし……来年にはこの城でも、お暇を戴くことになってます」
 今は確かに『ばあや』と呼ぶに相応しい年齢になっている彼女も、あの事件の時は、今の自分よりも、少し上なだけの歳だったのだ……それなのに、俺は屈託なく、 乳母だったというだけで、ばあやなんて呼んでたんだなぁ……と、スモーキーは、改めてしみじみと思った。
「そうか……。苦労かけたんだな……。俺が早まったことをしたばっかりにすまなかったな」
 家が取り潰しとなり、館の者たちは、結局ほとんどが解雇されたのだと、スモーキーは風の便りで聞いてはいた。
「あの時のぼっちゃまの悔しさは、ばあやだって同じ気持ちでございましたですよ! ぼっちゃまこそ、鉱山なんぞに行かされて、よくぞご無事で! あんな細っそりとしたお体では、荒くれた鉱夫たちの間では、もう生きてお帰りにはなれないと思っておりましたのに。こんなにがっちりと大きくなられて……」
 ついに彼女は声をあげて泣き出してしまった。
「ああ……手なぞ、このばあやよか荒れてなさる、おいたわしい……。覚えておいでですか? 昔、チェンバロをお弾きになっていた最中、ぼっちゃまの繊細な指使いに、見惚れたように蝶が、その鍵盤の端に止まって……白いレースのついたぼっちゃまのお衿に、花びらが 、はらはらと舞って落ちて止まり、まるで一枚絵のようでございましたねえ……。 あの頃のぼっちゃまのお可愛らしさといったら……。それなのに、こんな傷だらけ で、汚れた節だらけの指に……どんなにご苦労されたのでしょう? うう……」
 ばあやは感極まり、スモーキーの手を握りしめたまま、おいおいと泣きながらそう言うのだが、彼女が持つスモーキーの若かりし頃の思い出と、今の彼のイメージが、まったくそぐわず、感動して涙ぐんでいたはずのサクルやリュミエールや他の者たちの目から、涙がビタ!と止まってしまった。さっきまで鼻水を啜って泣いていた大男に至っては、 ばあやとスモーキーの顔を交互にみながらポカン……と口を開けている。
 皆の視線に、さすがに耐えきれなくなってきたスモーキーは、彼女の肩を労るようにそっと抱くと、扉の方へと進んだ。
「ばあや、俺も政府入りが決まっているから、しばらくは城にいるよ。いつでも逢えるから。そうだ、今夜、仕事が終わったら、一緒に町に出て食事でもしような。ばあやの部屋に迎えにいくよ 、どこだい?」
「勿体ないお言葉……。申し訳ありません、大事なお仕事中に押しかけてしまって。城の北の塔が、下働きの者たちの住居になっているのです。そこで待っております」
「わかった、五時の鐘が鳴ったら、すぐに迎えに行くよ」
 スモーキーは、ばあやの背中に優しく手をかけて、部屋の外に出て行くのを促し、彼女を見送った。扉が閉められた後、スモーキーは、気まずそうに皆を見渡した。
「コホン……あ……す、すまないな、ばあやも年寄りなんで、涙脆くてな。騒ぎ立てしてすまん 。なにか……喉が乾いたよな、何か飲むものでも……。ああ、暑くなってきたな、窓を少し開けようか? あ、いや、もう開いてるか……」
 頭を掻きながらスモーキーはそう言うと、後は、なるだけ早くこの雰囲気を打ち消してしまおうと、一人でアタフタとしだした。

 だが、その時、 再び扉が、今度はバタンと遠慮なく開いた。
「ぼっちゃま、言い忘れました。館の庭師だった者も健在なんでございますよ。城下で、身内と一緒に小間物屋を営んでおります。たまに逢えば、シャルル様は、どうなさっているか 何か判らぬか? と、そればかり 私に聞くんですよ。知らせてやったらどんなに驚くでしょう。彼にも声を掛けておきますね。では……」
 言うだけ言って出て行こうとする彼女に、すかさず大男が声をかけた。
「ばあやさん、待ってくれっ! そのシャルル様ってのは、コイツのことかい?」
 一見して鉱夫と判るような容姿の大男が、スモーキーを指差すのに、ばあやは、あからさまにムッとした顔をした。
「コイツ? ぼっちゃまのことですか? そうでございますとも。シャルル・エンジェライト・クリソプレイズ様のことですよ!」
 フンッ、と鼻息が聞こえてくるくらいにキッパリとそう言うと彼女は、ぼっちゃまことスモーキーと、リュミエール王だけに向かって、優雅に一礼し、帰って行った。

「シャルル・エンジェライト・クリソプレイズ……」
 背後から聞こえたリュミエールの呟きに、スモーキーは天井を見上げた。そして、ハッとしてリュミエールを見た。ペンを持つ手が、今にも動き出しそうになっている。
「か、書くなっ、リュミエール。俺の名はスモーキーでいい。断じて、スモーキーだ!」
 必死になって止めるスモーキーに、リュミエールの口端が僅かに上がる。
「でっ、でも……、とても、優雅な良いお名前ですのに……」
 さらに、追い打ちを掛けるようにジンカイトが言う。
「本当に。貴族らしいご立派なお名前ですねえ。ミドルネームを入れるのは、王族やスイズ貴族の長子に多いですしね」
「いやあ、鉱山にいたんじゃ、一生、聞くこともねぇような、お綺麗な名前だぜ。まるでお伽噺に出て来る王子様のようだぜぇ」
 大男は、また涙を流しているが、先ほどの感動の涙とはまったく別のものだ。
「あーー、でも、ばあやさんの話だと、スモーキーは、昔は、本当に優美な美少年だったのですねえ。シャルル・エンジェライト・クリソプレイズの名前の通りに。うふむ……人は環境によっていかように変わりうるか? そして、その名との因果関係は……? ふむふむ、なかなか興味深い テーマですねぇ……これは幾つか事例を調べてみる価値があるかも知れません……メモしておかなくては……メモメモ……」
 肩を怒らせているスモーキーの横で、のほほんとルヴァが、真剣なだけにタチの悪いダメ押しをした。
「リュミエール。お願いだから、その文書に、早く、スモーキー・クリソプレイズと書き入れてくれ、頼むよ」
 スモーキーは、椅子に座り込み、頭を抱えながら懇願した。
「はいはい……判りました」
 リュミエールは笑いながら、やっとそう書き入れた。

 翌日、その仕上げられた暫定政府についての文書は、まず教皇庁へと届けられた。鉱山の者たちの処分の事もあり、教皇庁に行くついでのあったスモーキーに、文書は託された。スモーキーが、教皇の御前にて、文書を差しだし、一通りの説明を終えると、教皇は、クラヴィスの所で茶でも飲んで行くようにと、労ってくれたのだった。

「よお、クラヴィス。お言葉に甘えて、お茶、ご馳走になるぜ」
 と、スモーキーは、いつもの口調でクラヴィスのいる彼の私室に入り、遠慮無く椅子に腰掛けた。
「用意させよう」
 クラヴィスは、小さなベルを打ち鳴らして、側仕えを呼んだ。
「このあいだまで、ヤカンから白湯を直接啜ってるような生活してたのに、側仕えを呼びつける姿も様になってらぁな」
 スモーキーは、クスクスと笑ってクラヴィスを冷やかす。
 その時、開け放たれた窓から小鳥が一羽入ってきて、部屋の片隅にある飾り棚の縁にちょこんと止まった。クラヴィスはスッとたちあがると、小鳥の元に行き、足に括り付けられたものを解く。小さな紙片だ。
「ほぉ……」
 と、クラヴィスが呟くと同時に、黒いロングドレスに白いフリルのついた可愛らしい側仕えが「お呼びでございますか?」と、慌ててやって来た。クラヴィスは、紙片を折りたたみ、再び、スモーキーの前に着座した。
「すぐにお茶の用意を。私にはいつものを。こちらの……シャルル・エンジェライト・クリソプレイズ殿には、香りづけの酒を多い目に入れるよう……」
 クラヴィスは、澄ました顔で言った。スモーキーは椅子から、ずり落ちそうになっている。
「ど、どうしてそれを……」
 昨日の今日で、スイズ王城から、教皇庁にやって来たのは自分だけである。文書にも、もちろん例の本名は記載されていない。城から使いの者を出した形跡もない。
「フッ……。教皇庁の情報網を舐めるでない」
 クラヴィスは、してやったりという顔をしている。
「あ……。今の鳥だな? その鳥の足に括り付けてあった紙に書いてあったんだろ? どいつもこいつも俺の名前を笑いのタネにしやがって。ちくしょう〜、見せてみろっ、その紙!」
 スモーキーは、クラヴィスの手から例の紙片を、強引に奪う。

『あのね面白いことが判ったよ。スモーキーの本名はシャルル・エンジェライト・クリソプレイズっていうんだよ。また何かあったらチュピで知らせるね』

「…………って、どこかで見たような鳥だと思ったら! チュピってのは、最近、サクルが、どこからか連れてきて、飼い出した鳥のことじゃないかぁっ?  “僕、鉱山では、鳥持ちだったから、小鳥さんが大好き(ニコッ)” なんて言いやがって! クゥ〜ラァ〜ヴィィ〜ス……お前か? サクルに密偵やらせてる、黒幕は〜」
 スモーキーは、クラヴィスに躙り寄り、その襟元を掴んだ。
「その手を離せ、シャルル・エンジェライト・クリソプレイズ」
「フルネームで呼ぶなー、ちくしょう〜、二度とその名で呼ぶなよ〜っ」

 だが……数年後、リュミエールの勧めと、便宜上の都合からクリソプレイズ家は、貴族籍を復活させることが出来、スモーキーの願いも虚しく、彼はその後の長い人生を、再び、シャルル・エンジェライト・クリソプレイズとして生きて行かざるを得なくなるのであった。
 

お・し・ま・い


「おい、シ・ャ・ル・ル(笑)、ばあやさんが来てるぜ」
「うるせぇ! 黙れ、大男ッ。スモーキーだって言ってンだろーがっ。いっぺんシメられたいか?」
「ぼっちゃま! またそんなお下品な言葉遣いを! もう鉱夫ではないのですよ。教皇様からお預かりしている管轄地の総責任者という立場のお方が……くどくどくど……」
「ばあや……。ぼっちゃま、って言わんでくれと頼んだだろ? 俺の歳を考えてくれよ」
「……あい、申し訳ありません。では……シャルル様……」
「…………だーーかーらーー(涙)」

 


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