第六章 5

 
 オリヴィエは、ラオから受け取ったオスカーからの文書を持って、ジュリアスの元に急いだ。普段ならば、彼もまた私室にいて身支度を調えているような時刻である。オリヴィエは、先に私室のある塔に行こうとした。その時、主塔から出てくるツ・クゥアン卿が見えた。険しい顔付きをして足早に去っていく。
“ツ・クゥアン卿が来ていた……ジュリアスは、執務室にもう出てるのか……そうだよね……ジュリアスがまだ寝てるなんことないよ……第一、昨日は眠れなかったに違いない”
 オリヴィエは、主塔の執務室へと行き先を変えた。本当ならば、いよいよ年越しの祭を迎えて浮き足立っているはずだったけれど……と思いながらまだ静まりかえった長い廊下をオリヴィエは歩いた。
 ジュリアスの執務室の扉を叩き、そっと押し開けたオリヴィエの目に、机の前で静かに報告書を読んでいるジュリアスの姿が映った。
「ジュリアス、お早う。ねえ、これなんだけど……」
 例の文書を手渡そうと近寄ったオリヴィエに、ジュリアスは手を挙げて、それを制した。
「今、しばらく待っていてくれ。これに目を通してしまいたい」
 そう言い、ジュリアスはすぐに報告書に目を戻した。オリヴィエは無言で頷き、側にある椅子に腰掛けて、ジュリアスを見た。凛として堂々とした王ぶりはいつもと変わりない。昨日の夕暮れ、二人きりになった時見せたような弱々しい微笑みも、動揺の色も、微塵も感じられない。オリヴィエは俯く。そして思い出す。モンメイ城にクゥアン軍が攻めてきた日の事を。兄リュホウの首に剣を突きつけて、進退を決めよと迫っていた時の事を。
“あの時と同じ目をしている……ジュリアスという一人の人間でなく、クゥアンの王としての孤高の王の目だ……。ジュリアスとしての心を閉ざしている……”
 無理もない……とオリヴィエは思い溜息をついた。
“オスカーとたった半年足らずの付き合いのワタシでさえ昨日は眠れぬ夜を過ごした……。明け方になってラオに会うまでは、誰とも朝の挨拶さえする気になれなかったもの……”
 オリヴィエは顔を挙げて、再度、ジュリアスを見た。報告書がその手元から離れ机の上に置かれた。
 オリヴィエは黙ったまま、手の中に持っていた小さな紙片を広げて、ジュリアスの目の前に差しだした。コツが通信に使う筒に入っていたせいでその文書は皺だらけである。ジュリアスは、ごみのようなその紙片を訝しそうに手に取った。

『ジュリアス様の命によりホゥヤンに立ち寄るので戻るのが二、三日遅れる』

 ジュリアスは、紙片から目を離し、オリヴィエを見た。その目に人らしい驚きの表情が見て取れる。オリヴィエは微笑んで、ジュリアスの側に寄った。
「やっと、人の声が耳に届く風情になったね」
 オリヴィエがそういうとジュリアスの顔がまた無表情に戻った。
「これは何か、と問うている。皮肉なら聞いている時間はない」
「気が短いったら……。まあ、待ってよ。それは、昨日、コツで第一騎士団宛てに届いたものだよ。インディラの港町から、ホゥヤンの手前の駐屯地に立ち寄ったオスカーが出したものらしい」
「私の命とは? そのような命など……出してはいないぞ……」
 オリヴィエは先ほど、ラオと話した時と同じような会話を繰り返し言った。そして最後に「オスカーは、本当に、ジュリアスからの命を受けてホゥヤンに向かったんだよ……本人はそう信じてね。そうでないと、ジュリアス様からの命により……とは記さない」
「オスカーが南の領地に出向く前に、私は彼に、今後の身の振り方についての事を尋ねたのだ。ホゥャンの実家に、いずれは帰るつもりか、と。供に西に行くことについてもオスカー自身の意見を知りたいと思って。だから、南の領地の帰路に、ホゥヤンに立ち寄ることは考えられる……そうして立ち寄った故郷で、父親からこの一件についての計画を知らされて、思わず荷担した……昨夜、そう結論づけた。今、読んでいたのは、ホゥヤン領主からの詳しい報告書だ。昨夜書き上げたものを、先ほどツ・クゥアン卿が持参してくれた。私の推測を裏付けるような内容だった……。だが……この、私の命により……という一文が、それを否定する……」
「誰かが……謀ったことかも知れない。オスカーに恨みがある者か……他国の出なのに、異例の出世を妬む者もいるって聞いたことがあるよ。心当たりはない?」
「そのような話は聞いたことはあるが。だが……ホゥヤン領を巻き込んでまでの謀をしようなどと……」
 ジュリアスは首を左右に振った。
「ジュリアス……。勝手にいけない事だと思ったけれど、一刻を争うと思ったので、ラオとヤンをクゥアンに行かせたよ。もちろん、休暇扱いでね。オスカーの安否を最優先に調べさせるために。……結果はどうであれ、真実だけを持ち帰るとラオは約束してくれた……」
 オリヴィエは、ラオを行かせた経緯を付け加えて説明した。ジュリアスは頷いた。
「今は、オスカーの無事を祈って待っていよう……。今日は、年越しだ。じきに皆が慌ただしく動き出すだろう。そなたにも忙しい思いをさせるがよろしく頼む」
「忙しい方がいいよね、余計な事を考えずに済むもの」
 そう言ってオリヴィエは、軽く笑った。
「ああ」
 とジュリアスは短く答えた。
“陽気に振る舞っているかと思えば、悲しみを湛えた風情で儚げにしている時もある。毅然とした冷酷ともいえる態度で接しているかと思うと、幼子のように屈託無く笑う……たぶん、オリヴィエは上手いのだ。気持ちの切り替えや、その場その場に応じて自分の心を制御するのが……。見習わなければなるまい……”そう思って、ジュリアスは小さく自嘲する。
「ジュリアス……ワタシがいて良かったねぇ、あんな鉄仮面みたいな顔で民の前に出てごらんよ。貴方の人気もこれまでだったよ」
 オリヴィエは得意げに澄まして言う。
「そなたこそ、目の下に隅をつくって。美貌の噂もさほどではないと言われるのではないか?」
 ジュリアスはそう切り返した。
「何だよ、負けず嫌いだね。でも、その様子じゃもう大丈夫だね。ラオが出掛けたから、僭越ながらワタシが、第一騎士団の面倒を見てくるよ。名物料理とやらも仕込みの途中だしね」
 慌てて指を目の下にやりながら、オリヴィエは言った。
「よろしく頼む。年明けの祭が始まる時刻にまた会おう」
 ジュリアスが答えると、オリヴィエは膝を少し折った略式の礼をして、執務室を後にした。
 オリヴィエが去った後、ジュリアスは、報告書を再び手に取った。
“もう一度、心を落ち着かせて読もう。ロウフォンとオスカーの行動の真意を知る手掛かりとして……”
 たった今、オリヴィエから聞いた小さな可能性が、ジュリアスの心を、暖かくしていた。

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