一九二八年 八月某日、巴里、モンマルトル。
午後三時のカフェ・セ・レレガンス・ドゥ・ロム・モデルン……。

 この日、早番だったオリヴィエは、ギャルソンの仕事を終え、パントリーの一角で、着替えを済ませ、勝手口から出ようした。ポツリポツリと雨が降り出していた。
「やれやれ。結構、大粒だよ。珈琲でも飲んで雨が通り過ぎるの待ってよう」
 オリヴィエは、店へと逆戻り。勝手口からパントリーへ、そして店内へと続く扉を開けると、この店の、一応は、女主人ということになるミレーヌが、「ほらね!」と、明るい声をあげた。ミレーヌのパートナーであり店主のアランは、オリヴィエを見るなり眉間に皺を寄せ た。

「な、なんなの? 一体……」
 思わず立ち尽くすオリヴィエの側に、ミレーヌが微笑みながら近づく。
「今、急に降ってきたでしょ、オリヴィエが、そのまま帰るか、店に留まるか賭けてたのよ。アランってば、帰るほうに賭けたわけ」
 クックッと笑いながら、ミレーヌは、アランを指さす。
「なんだよ、男ならこんな雨くらい気にせず走って帰れよ」
 いつも温和で物静かな彼にしては珍しく、口を尖らせてオリヴィエを非難した。
「だって向こうの空は晴れてるもの。それに昨夜、髪を洗ったばっかりだし。少し待てば通り過ぎる雨なんだもん。で、何を賭けたの?」
「うふふふ、子どもには、ナ・イ・シ・ョ」
 ミレーヌは、オリヴィエの形の良い唇の上に指を置いて、腰をくねらせ色気たっぷりにそう言った。
「十歳しか違わないのに子ども扱い! 大体、なんだよっ、その腰つきったら、いやらしいよっ、何とか言ってよ〜、アラン」
 オリヴィエは、アランに窘めて貰おうとしたが……。
「ミレーヌ、オリヴィエは、恋人もいない、寂しい独り身なんだから、挑発的な態度は意地悪というものだよ」
 と、真顔で言った。
「アアン、ごめんなさぁーい、アラン〜。オリヴィエ、気を悪くしないでね。休憩しようと思ってたから、オリヴィエにも、珈琲煎れたげるわね。アラン、オリヴィエの分もお願いね、あ、ミルクはたっぷりね、まだ子どもだから〜」
 ミレーヌにからかわれた悔しさで、ふくれっ面をしながらも、タダで、カフェ・オレを飲めるとあって、いそいそと店の一番奥の席に座るオリヴィエだった。
 そして、ミレーヌが、オリヴィエの為に珈琲を持って戻って来た時、二人の老人が店内に入ってきた。いつもこの辺りの時間にやってくる常連客である。
「お遅番の子はまだ? 手伝おうか?」
 思わず立ち上がりかけたオリヴィエを、ミレーヌは、優雅な手付きで止めた。
「遅番の子は、今日はちょっとだけ遅れるらしいの。いいのよ、そのまま座ってて」
 ミレーヌは、そう言うと、客たちの方に向き直り、「ボンヂュール、いつものね?」と声をかけた。老人たちは、各々新聞や水を自分勝手に用意している。ミレーヌが、カウンターの中へと行ってしまうと、オリヴィエは、鞄の中から本を取り出し、それを読みながら、ゆっくりと珈琲を飲 み始めた
 

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