「何を食べましょうか。オリヴィエの奢りなんて本当に久しぶりですね」
「ちょっとっ、なんでだよッ。リュミエールの売り上げと、ワタシの売り上げってほとんど一緒ぢゃないの」
「忘れたんですか? 茶器ですよ……さっきの事。あの卑猥な漢詩もどきを読んだ時の事! 茶器を売らなかったから許してあげたんです。結局、別の人とは言え、茶器は売りましたからね」
「そんな〜。結構、マジでワタシの創作漢詩に、キてたクセに〜」
「どこがあなたの創作なんです? あれって売れない作家が、食いつなぐために書いたエロ小説の一節じゃありませんか。虹口のマーケットの路地裏でオスカーが、怪しげな男から五元もぼったくられて買ったザラ紙の同人誌の。それを貴方が一元で譲り受け、その後、宵闇亭のマスターに、珈琲のツケをチャラにして貰いたくて、無理矢理押しつけた『官能の有閑マダム、四馬路(スマロ)の危険な夜』っていうヤツでしょう」
と言ってから、リュミエールは、しまった……という顔をした。
「ほほう、内容を覚えているくらいに、リュミエールもあの本のお世話になったと!」
こういう時のオリヴィエの顔は本当に楽しそうである。
「ち、ちょっとどんなものかと思って読んでみただけですよ」
「ふふん」
「なんですか、そのふふんって。ああ、お腹も空いていることですし、気が短くなっています、わたくし。久しぶりに投げてあげますから、イーゼルを置きなさい」
リュミエールは、オリヴィエに向かって構えた。
「やだーー」
オリヴィエは、イーゼルを抱えたまま走り出す。モンマルトルは、丘の町である。幾つもの階段がオリヴィエの行く手を阻む。狭い裏路地を抜けて、やっとひとつ階段を上がったと思ったら、また別の通りに出るのに下りの階段がある。三つ目の階段を上がりきり、ホッとしたのも束の間、無慈悲にも、また下り階段がある。勢いよく下がったところで、オリヴィエは、それ以上は走れなくなって座り込んだ。すぐに追いついたリュミエールも、オリヴィエの横にしゃがみ込んで、手にいっぱい持っていた絵を置き、はあはあと息を継ぐ。
その時、二人の目前のビストロの灯りが、タイミングよくパッとついた。エプロン姿の太った男が、どっこいしょとサインボードを出す。その前に座り込むと彼はチョークで、本日のオススメ料理を書き始めた。この親爺が一人で切り盛りしているような小さな店なのに、看板に書かれた料理名はいっぱしのものだ。
「はぁはぁ……ためだ、もう、ラ・メール……カトリーヌま……で、行けない。ここでいい、ここで食べよう」
オリヴィエは、息も絶え絶えに言った。
「仕方ありません。一時休戦ですね」
息を整えながらリュミエールはそう言うと、汗をシャツの袖口で無造作に拭いているオリヴィエを見た。いつもはふわりと顔に掛かっている前髪を掻き上げて、その美しい額を露わにし、黄昏の柔らかな光を浴びている横顔を。
そんなオリヴィエの表情に、彼が元気になって良かったとリュミエールはホッとするのだった。
“……とは言っても、たぶん、心の片隅には晴れないものがあるのでしょうね。でも、それはわたくしも同じ……。上海が懐かしくて、恋しくて……”
リュミエールは、そう思いながら立ち上がった。今度はそのリュミエールの横顔をオリヴィエが見ていた。
「ね、リュミエール、今、何を思っていたか、当ててみよっか……上海の事でしょ」
「ふふ……いやですね、どうして?」
こんな事は二人の間ではよくあることだった。何となく判る。それでも当てられた方は、どうして? といつも問う。
「今、立ち上がりながら、ものすごーーーく遠い目、してたよ」
オリヴィエは、自分の目尻に指を置き、そう言った。
「オリヴィエ、それはニャンコの目。それとも皺のばし? いよいよ貴方もキましたか、カラスの足跡。さあ、立って。食事に行きましょう」
リュミエールは、言い当てられた仕返しに、意地悪くそう言うと、座っているオリヴィエに手を差し出した。
「ありがと」
リュミエールの手に取って、オリヴィエは立ち上がりかけた。
「隙あり!」
リュミエールは、オリヴィエの手を掴んだまま彼の上着の奥衿を取った。
「ち、ちょっと、待っ」
慌てふためくオリヴィエの体の下に、素早く自分を滑り込ませて、綺麗な一本背負いの形にリュミエールは入った。そしてそのまま、ピタリと静止した。オリヴィエの体は完全に浮いている。
「さあ、投げられる前に、奢るとおっしゃい!」
「奢る!」
オリヴィエの即答に、リュミエールは笑いながら彼を降ろした。そして、「メルシ」と言うと、鼻息を荒くしてふくれているオリヴィエの頬に軽くキスして、荷物を持ち、さっさと目前のビストロの扉を開けた。
「おや……ま」
まんざらでもない顔をしてオリヴィエは頬を撫でる。
「何にしましょうか。どれもこれも美味しそう」
先に店に入ったリュミエールは、壁に貼られたメニューを見て言った。慌てて店内に入ったオリヴィエも、「ああっ、ノルマンディ風子牛の焼肉がある。うわっ、若鶏の山椒煮込みとどっちにしよう」と声をあげた。
「グルノーブル風の虹鱒のソテーもいいですね。小エビのワイン蒸しも……って、わたくしたち、すっかりパリジャンのようですねぇ」
オリヴィエとリュミエールは、顔を付き合わせて苦笑し合う。
「ふふ、やだなー、もう、リュミエールったら仏蘭西かぶれなんだから。この間まで、納豆と白いご飯に玄米茶の人間だったクセに。しかも洗濯が間に合わなかった時とか、まだ時々、フンドシしてるくせに。あ、もうそろそろ寒くなってきたし、ラクダのパッチ出さないといけないぢゃない?」
「オリヴィエ〜よくも言いましたね」
リュミエールは、オリヴィエを睨み付けると、注文を取りに来た親爺には、嘘のように優しげに微笑んだ。そして……。
「スペシャリテ ド メゾン、ヴァンルージュ、ユヌ ブテイユ〜」
歌うように楽しげにリュミエールが言うと、見る見るオリヴィエの顔色が変わる。
「ま、待って! シェフのオススメ料理は許すとしても、赤ワイン瓶ごとってのは許すまじッ。人の奢りだと思って!」
慌ててオリヴィエがそう言うが、店の親爺は、野暮な事を言うもんじゃないとばかりに、人差し指を立てて口の前で振る。オリヴィエは、仕方ないと肩を竦めた。その様子見ると親爺は満足気に頷き、厨房に引き返してワインとグラスを持って戻ってきた。もうひとつの手に持った盆には、焼きたてのキッシュが載っている。
「ちょっと待ってておくれ。すぐに作るからね。先にこれで一杯やっていてくれるかぃ。今日一番のお客さんへのサービスだ」
ウィンクひとつと共に親爺はそれをオリヴィエとリュミエールの前に置いた。
「熱々ですね。オリヴィエ、さあ、乾杯しましょう」
「うん。今日の事、ありがとう。楽しかった、水夢骨董堂で商売してた時の事、思い出して」
オリヴィエは、ちょっと照れくさそうにそう言った。
「いいえ、わたくしのほうこそ」
リュミエールは、心からそう言い、オリヴィエのグラスにワインを注いだ。
「さぁて、何に乾杯しようか。何か気のきいた乾杯の言葉は……。おっと、オスカーじゃないんだから、アレはナシだよ」
「誰が言うもんですか、君の瞳に……なんて」
「ふふ、じゃあねぇ……、えっと」
オリヴィエは、少しグラスを掲げて、乾杯の言葉を言おうとした。
「オリヴィエ、巴里にいるのに、それはどうかと思いますが」
リュミエールは、クスッと小さく笑ってそう言った。
ガクッとオリヴィエの手が下がる。
「だからーー、もうっ、なんでっ、なんで判るのッ」
「遠い目してましたって」
オリヴィエの様子が可笑しくて、リュミエールは、涙目になりながら答える。
「んもおっ。いいのっ。乾杯ったら、乾杯ッ!」
オリヴィエは、強引にリュミエールのグラスに自分のグラスを合わせた。そして二人で声を揃えて言った。
「上海に乾杯!」と。
FIN