◎夏の章◎

 

 「よかったですね、オリヴィエ、とりあえず十ドルあれば家賃も払えますし、当座の生活費になります。ここはなんとしてもその壺の交渉をまとめなくてはいけませんね」
 リュミエールは、帰宅したオリヴィエから、オスカーの依頼の内容を聞くと嬉しそうに言った。
「そんなに価値のある壺なのかねぇ、キンコンカンコンの壺って?」
「は? キンコンカンコン?」
「うん、なんでもセキコとか言う帝の宮廷の様子が描かれてる壺なんだってさ」
「もしや、それは白桜桃下紫綸巾ではありませんか?」
「あ、それ、なんだリュミエール知ってるの?」

「……なるほどね……そういう事でしたか、オスカー、許しませんよ」
 先ほどまでの穏やかなリュミエールの顔が豹変している。
「な、なんなのよう〜いきなりぃ」

「魏晋南北朝時代、石虎という帝がおりました。それはそれは華やかな宮廷だったそうで、帝外出の折りには宮中千人の美女を従えたとか……。後に陸亀蒙という詩人がこの様子を詩にいたしました。その一部に、白桜桃下紫綸巾という下りが出て来るんです。つまり白い薄ら梅の花の下に紫の頭巾を被った美女が立ち並ぶ……というような意味なんですが」
 リュミエールは、そこまで一気に言うと側にあった茉莉花茶を飲んだ。

「はぁ、ワタシにわかったのはアンタが教養があるって事だけだけど?」
「いいですかっ。魏晋南北朝時代は、中國四千年の歴史にあって男色隆盛期時代だったんですっ、この石虎という帝は、鄭桜桃という稚児をこよなく愛したんですっ、この詩の白桜桃下とはすなわち、この稚児の比喩。紫頭巾の千人の美女よりも寵愛を受けている美少年というウラの意味があるのです。そして、そのような絵が描かれている壺を所有しているという事は、これすなわち、その仏蘭西人は、男色の気ありという事ではありませんかっ」

「ははあ、話が見えてきたよ」
「そして、その仏蘭西人が【受】ならば、オスカー自身がなんとかしていたでしょう、わたくしたちにこの仕事を振るという事は、その仏蘭西人は【攻】に違いありませんっ」
「つまりは色仕掛けで手に入れろって事か。断ろう、この仕事。最初からそうだと知ってたら引き受けなかったんだけども」
 いつになく神妙にオリヴィエは言う。

「いいえ、やりましょう」
 リュミエールはキッパリと言い放った。
「でもリュミエール、そういうの嫌いじゃないの? いままでだって容姿のせいで男色の気ありと間違われたり、言い寄られたりして仕事先クビになったりさぁ、元々、アンタが柔道、空手、少林寺拳法と、武術を身に付けたのもそういう男から身を守るためだろ?」

「何言ってるんです、いまさら。さんざんわたくしを利用して骨董売っといて。壺を手に入れ、オスカーにふっかけてやりましょう、五十ドルなんて安すぎますからね」
 リュミエールは、スックと立ち上がると、長い髪を縛っていた革ひもを解いた。青みがかった銀色の髪がリュミエールのしなやかな背中に散る。
「ヤル気の時のリュミちゃんって……こ、怖いかも〜」

◆◇◆

並んで歩くオリヴィエとリュミエールの横を、黄包車が通り過ぎてゆく。

「ねー、やっぱ乗って行こうよ」
「そんなお金ありません。そこの通りを越えればすぐですよ。あ、ほら、綺麗な馬車ですね、きっと仏蘭西領事館の馬車ですよ」
 リュミエールは、嬉しそうに言うとダラダラと歩くオリヴィエを引っ張って、通りを横切る。大通りを歩きながらオリヴィエは溜息をついた。
「同じ上海なのに一筋違うだけで別の国だね、ウチの店のある通りみたいに物干し竿一本窓から出てないっていうのもなんだか不思議」 

仏蘭西租界の中ですからね、写真で見た巴里の街と同じプラタナスの並木道、好きですよ、ここ」
「早く行きたいね、本当の仏蘭西に……さ」
「そうですね、その為にも壺を手に入れましょうね」
 リュミエールはにっこりと微笑むとオリヴィエに同意を促した。
「そ、そういう顔してるリュミエールってそこはかとなく怖いよ〜〜」

  オスカーから手渡されたメモを頼りに、二人はその仏蘭西人の屋敷のある通りまで辿り着いた。閑静な住宅街の中に目当ての屋敷があり、二人は門柱に取り付けられた呼び鈴を押した。ほどなく小太りの中國人メイドが出てきた。

「わたくしどもは、アンティークを取り扱う店の者でございますが、ご主人にお会いしたいのです」
 とリュミエールが、仏蘭西語で言うとメイドは首を傾げながら、たどたどしい仏蘭西語で「ヤクソクシマシタカ?」と言った。リュミエールが、首を横に振るとメイドは門を閉めようとした。その手をオリヴィエは止め、一元銀貨を握らせると、今度は上海語で、「とても綺麗な男の骨董屋が大切な用で来ている……とお伝え」と言った。

「ウィ、ムッシュー」と、それだけは言い慣れているのか綺麗な発音で答えると、メイドは走り去って行った。
「まさか本物の一元銀貨じゃないでしょうね?」
 メイドが消えるとリュミエールはジロリとオリヴィエを見て言った。
「とーぜん」

 ほどなく二人は屋敷の中、応接間に通された。全体がロココ調で統一された、いかにも仏蘭西人らしい部屋のインテリアを眺めながら、二人が待っていると、当主らしき男が入って来た。体格も容姿も悪くはない、貴族らしい優雅な雰囲気である。キッチリと整えられた髪、インテリそうな銀縁のメガネがいかにも仏蘭西銀行副頭取という感じである。

「お待たせいたしました。なにぶん急なお越しだったので……ほぅ」
 と男は二人を見ると目を細めた。その目は明らかに二人を品定めしているようだった。「初めてお目にかかります、エルンスト伯爵様」
 リュミエールとオリヴィエは軽く頭を下げた。
「お見受けしたところ、あなた方も仏蘭西人……同郷のよしみだ、お話を聞きましょう」「単刀直入に申しますと、所有されている白桜桃下紫綸巾の壺をわたくし共の店に売って戴きたいのです」
 リュミエールは微笑みを絶やさず、そう言った。

「おやおや、何の話かと思えば。蓬莱国賓館のオーナーからの依頼ですか?」
「さる亜米利加人から依頼ではありますけれど、蓬莱国賓館のオーナーが、絡んでいるかどうかは存じません」
 とオリヴィエはシラを切る。オリヴィエは仏蘭西語だとちゃんと話せるのである。
「困りましたな、あの壺は私も気に入っているので」
 と伯爵は、この状況を楽しむように言うと暖炉の上に飾ってある壺のひとつをチラリと見た。すかさず、オリヴィエが立ち上がり、その壺の方に歩み寄る。

「おお、これがその壺でございますか? 見せて戴いてもかまいませんか」
 と言うと、伯爵の返事も待たずに壺を手に取る。高さは六十センチ位、薄い桃色をしたその壺の中心に例の白い桃の花の下に微笑む桃鄭桜という少年が描かれている。

「美しい……少年でございますね」
とリュミエールはオリヴィエの横から、チラリとその壺を見ると呟いた。
「そう真に美しい少年です、貴方たちと同じ位に……」
 伯爵は意味ありげに言った。オリヴィエは、壺を元に戻すと、リュミエールの隣ではなく、伯爵の隣に座った。

「商談に戻りましょう……壺を譲って戴けませんか? すぐにお返事を……とは申しません、三日後にお返事戴ければ……わたくし共の店にご招待差し上げたいところですが、あいにくむさ苦しい所でして……パレスホテルにお部屋を取りましたので、そこで……じっくりと……」
 オリヴィエがそう言うと、伯爵はゴクリと喉を鳴らして唾を飲み込んだ。

◆◇◆

三日後パレスホテル三〇七号室……。

「やめて下さい僕はそういうつもりでは」
 オリヴィエは後ずさりしながら仏蘭西語で言った。
「いまさら何を。壺が欲しいんだろう」
 伯爵はオリヴィエの細い手首を掴み、引き寄せる。風の通りがよくしてあるホテルの一室とはいえ、八月の午後の暑さである。絡み合う汗の臭いが伯爵の欲情をことさらにそそるのか、見かけに寄らぬ力強さでオリヴィエを抱きすくめる。

「ダメです、僕はそんなつもりでは……ああ……」
 オリヴィエは仏蘭西語で呟く。
「タダで壺をやってもかまわない……君さえ……言う事を聞くなら」
「タダ……で? 本当に?」
「ああ、だから……そう……私の言いなりに……」

 腕の中にオリヴィエを捕らえて、伯爵の息は興奮している。その手はすでにオリヴィエの白いシャツのボタンを外しにかかる。口づけのためにオリヴィエは顎を掴まれた。
「伯爵……喉がカラカラなんです、せめてワインを一口……クーラーにボルドーから取り寄せたワインを用意してあるんです」
 弱々しいフリをしてオリヴィエは懇願する。

「いいだろう、君さえその気になってくれたのなら、慌てる事もない」
 伯爵が手の力をゆるめた隙に、そこから飛び出たオリヴィエは、サイドボードに寄り、クーラーの中で冷やされていたワインを取り出し、それを手際よくグラスに注ぐと、伯爵に差し出した。受け取ったグラスを一気に飲み干すと、伯爵は待ちきれない様子でオリヴィエをベッドに押し倒した。

「そ、そんなにあわてなくてもぉ〜、もうちょっち待ってってばぁ〜」
 とオリヴィエ思わず上海語で叫んでしまう。
「何て言ったのかな? 喘ぐ時は仏蘭西語で言ってもらわないとね、あいにく私は上海語はあまり話せないんだから……」
 伯爵の手はオリヴィエのシャツの最後のボタンを外す。

(喘ぎ声は世界共通だって思うんだけど〜)
 オリヴィエは伯爵の体の重みを受け止めながら、数を数える。もう少しすれば、コイツは深い眠りの中だと。今はまだ我慢……ワインに仕込んだ薬が効くまでと。伯爵は抵抗しようとしないオリヴィエの衣類をすっかり剥ぎ取り、銀縁メガネを外した。

「伯爵……」(ちょっちだけサービスしてやるか)
 オリヴィエは心の中で舌打ちした。どうすればいいのかだけは知っている……思い出したくもない娼夫になるように育てられた過去があるから。オリヴィエの指は伯爵の快感を引き出した。

「……ああ……ワインに酔ったか? それとも君に?……」
 そのまま伯爵が眠りに落ちてゆくのを、オリヴィエは醒めた目で確かめるとベッドから抜け出た。ベッドの側に散らばった服をかき集め身に付けると、サイドテーブルの横のメモに【壺は戴いてまいります。素敵な夜をありがとう】と白々しく置き手紙をし、例の壺を抱えてオリヴィエは部屋を出た。

 

★ next ★


◆黄包車(ワンパオツオ)  中國人が引く人力車
◆仏蘭西租界  フランス人の居留地