水夢骨董堂細腕繁盛記外伝 『花影追憶』 
  リュミエール回想録/冬の君子花
 

 虹口地区を出て南京路から四馬路を抜け、わたくしは仏蘭西租界へと入りました。園長先生の本職は、通訳でありましたので何度も一緒に租界には来た事がありました。園長先生について仏蘭西語をみっちり教えられておりましたから、手の足りない時は通訳として駆り出されていたのです。

 プラタナスの芽はまだ固く裸のままの街路樹をわたくしは歩き続けました。以前手渡されたメモの住所を頼りに画家のアトリエまで辿り着きましたが、画家はあいにく留守でした。中國人のメイドがつっけんどんな態度でしたので、そのまま中で待つ気にもなれず、とりあえずはアトリエを後にしたのでした。
 
 画家が帰ってくるまでスケッチでもして時間を潰そうと思い、元来た路をぶらぶらと引き返し歩いておりました。しばらく行くと、仏蘭西人の行き来が少なくなり、代わって中國人が増えました。旧城内近くまで歩いていたのです。わたくしはふと、もう少し行けば蓮池があるということを思い出しました。
 
 昔、園長先生とお母様、ルヴァと共に見に来た事があるのを思い出したのです。その時は見事な蓮が池一面に咲いていました。それをスケッチしようとわたくしは、城内に足を踏み入れました。
 
 城内は中國人の居住地で旧上海城の残骸の城壁に囲まれた地域で、西洋人は決して足を踏み入れる事のない場所でしたし、いったんこの地区の中に入り込んでしまえば、戻る事は叶わぬという噂もされておりました。けれどもわたくしは外見は西洋人でありましたが、あまりその事を意識した事がなく、城内といえど、同じ上海という意識でありましたので、路端に座って鋭い目をして睨んでいるものたちの視線もそれほど怖くはありませんでした。
 
 朧気な記憶を頼りに、ようやくその池に辿り着きましたが、池には涸れた蓮の葉がゆらゆらと漂うだけで一輪も花は咲いていません。よく考えればまだ春さえ遠いこんな寒い時期に蓮の咲いていようはずもないのでした。わたくしは木の根に腰を降ろして、ただ水面を見つめていました。
 
 そうして昔、この池に来た時の事を思い出していました。園長先生は、確か、お母様を慰めておいででした。何故お母様は泣いていたのだろう……わたくしの脳裏に、粗末な城内の家々の中にあって、一際立派と思える屋敷が蘇りました。
 
 あの時は……。見事な造りの中庭を抜けた奥座敷の椅子に腰掛けていた老人の顔が崩れ、ルヴァの頭を愛おしげに撫でると、老人は自分の膝の上に乗せました。その頃、幼いわたくしはルヴァは自分の本当の兄と思っておりましたので、次に膝に乗せられるのは自分と思い、老人の側に寄って行ったのでしたが、老人は大声で「お前は外で待っていろ、下がれ」とわたくしを追いやったのでした。そのとたん、お母様はその老人に向かって、今まで聞いた事もない怖いお声で「リュミエールは私たちの子どもです」と叫びました。それがきっかけとなり、穏やかだった雰囲気は一転してしまったのでした。
 
 お母様は「やはりお父様に判って頂こうとした私が馬鹿でした」とわたくしの手を引いて泣きながら屋敷を飛び出しました。
 そして丁度この蓮池の辺りで追いかけていらした園長先生とルヴァに呼び止められたのでありました。
 後になってわたくしは、日本人である園長先生と中國の名家の娘であるお母様との結婚が祝福されていないものだと言う事を知ったのです。わたくしは何やら自分のせいでお母様がお泣きになっていると思い、ご免なさいと何回も繰り返して言いました。すると先生とお母様、それにルヴァまでもが「お前が謝る事ではないのだよ」とわたくしを交互に抱きしめながら言ってくれたのでした。
 


 next