ふらつきながら、やっとの思いで、店のある路地を曲がると宵闇亭の割れた窓から中を伺っているものがいた。常連の一人で確か名前はオリヴィエという男だった。綺麗な顔をした男で今は骨董屋をしているらしいが、港で苦力をしていた頃に荷物の搬入で宵闇亭に出入りするようになった仏蘭西人らしい男だった。
言葉使いなども得体の知れないところのある男で、独りの時はいつもカウンター席に座り、私が何者かを確かめるように、上海語や仏蘭西語、下手な英語や日本語で話しかける。その都度、その言葉に合わせて相づちを打ってやると少し悔しそうにするのが面白かった。
「あ、帰ってきたっ。うわ、酷い顔……殴られたんだね。工部局の連中に連れてかれたと聞いてさ、もうダメかと思ったよ。スパイかなんかだと思われたんだって? 釈放になったって事は無実だったの?」
オリヴィエは上海語で次々と問い掛ける。
「ああ、向こうが勝手に誤解しただけだ」
と私も上海語で答えて宵闇亭のドアを開けた。連行された時のままだからドアに鍵は掛かってはいない。店の中に入って私は唖然とした。店の中には客が飲んだ後のカップがテーブルの上にそのまま残されており、カウンターの中の流しには汚れたカップがつけたまま。威嚇の為に工部局の連中が倒した椅子やテーブル、花台がひっくりかえっている。そこまでは判っていた事だが、ほとんどの食器類と壁に掛けてあった安物の油絵がない。蓄音機は重たすぎたのか幸い無事だったが、前のオーナーが残したレコードは全て失せている。少しでも金になりそうなものはそっくり消えていた。
項垂れた私の視界に、割れた花瓶の側で散らばっている花が見えた。床のこぼれた水を吸い上げて健気にもまだ瑞々しさを保っているその白い小さな花を無造作に束ねると私は側に転がっていたコップの中に差し込んだ。
「忍冬……だね。ワタシの育った孤児院の庭にいっぱい咲いてたよ」
オリヴィエが背後で呟いた。
「スイカズラ、というのか? 裏の店との間に勝手に生えていたものだ。毎年この頃になると花を付けるので拝借して店に飾ってみた……名もない路傍の花と思っていたらちゃんとした名があったのか」
「当たり前だよ、どんな花にも名前はあるんだよ、なかったら付けてやればいいんだし」
オリヴィエはなんだか少し怒ったようにそう言うと、今度はまた小声になって話を続けた。
「あのさ。この店……鍵も掛かってなかったし、食器とかお酒とか、浮浪者みたいな連中がどんどん盗んでっちゃったみたいで。勝手に悪いと思ったけどレコードだけは死守しようと思って、全部運び出したんだ。オスカー、あの赤毛の亜米利加探偵ね、アイツのとこに保管してあるから」
オリヴィエは気の毒そうに私の背後からそう言った。レコードは無事と聞くと私はホッとした。
「すまない……よかったら、珈琲でも飲んでいってくれるか……」
と私はオリヴィエに向き直って言った。
「うん、だけど……全部持っていかれちゃったんじゃない?」
オリヴィエは空になっている棚を気の毒そうに見て言った。
「いや……一杯分くらいは残っているみたいだ」
私は棚の上に残っている珈琲豆の入った瓶を指さした。湯が沸く間、私は何も言わずに淡々と残されていた汚れたカップを洗い続けた。スイカズラ……の入ったガラスコップに水を入れると花の甘い匂いがふわりと舞い上がった。
やがてシュンシュンと湯気の音が店内に響き、私はいつになく丁寧に珈琲を入れた。
「あのさ……今朝、アンタが帰ってるかもと思って散歩がてらここに来たんだけど、そしたら、ジュリアス様がいてさ、蓬莱国賓館の……ほらセイント財閥のさ、知ってる? お付きのモノとかもいなくて独りでだよ。すっごく上等のスーツ着て。こんなチンケな店の前に。あっ、ごめん。」
「あ、ああ」
私はオリヴィエの口からジュリアスの名前が出た事に少し動揺した。
「あ、ワタシはジュリアス様とは前に一度仕事で顔見知りなんだ。そのジュリアス様がさ、ワタシにここの常連かと聞くからそうだって言うと、こう言ったんだよ。コホン」
オリヴィエは咳払いをひとつすると、あまり上手くない英語で言った。
「私は珈琲は飲まぬがこの店の珈琲は格別美味と聞いた。何やら閉店している様子だがそれは残念な事だな。近いうちに飲める事を望んでいる……って言ってさぁ」
そこまで言うとオリヴィエは上海語に戻して話を続けた。
「変でしょ〜、んなもんでそれってばアンタへの伝言かと聞いたらさ、いや独り言であるとかなんとかブツブツ言って帰ってっちゃった」
「そうか……」
私はこんな場末にジュリアスが独りで来るにはさぞかし勇気がいったろうと思い気の毒になった。
「またアンタの珈琲飲めて嬉しかったよ……こんなになっちゃったけど、また店開けるんだよね、預かってるレコードは明日にでもオスカーと運ぶからさ」
珈琲を飲んでしまったオリヴィエは立ち上がって私の顔色を確かめるように言った。
「ありがとう……豆とカップさえあれば珈琲くらいはすぐにでも出せるから」
「よかった、それでこそ上海商人だよ〜、がんばってね」
オリヴィエが出て行こうとする後ろ姿に私は悪戯心をおこした。
「オリヴィエ、今の珈琲代はツケという事でいいな」
「なんだって?! アンタねーっ、まったくガメツイんだからっ」
「あたりまえだ私は上海商人だからな」
「そーかいっ、恩をタダで返すって諺がさ、日本にあるんだよっ。アンタは知らないだろうけどっ。くそー」
「恩を仇で返すだろう。それに私は……日本人の血も入ってる」
私は笑いを噛みしめつつ言った。
「へぇアンタ日本人なの?」
「と露西亜人との混血だ。育ったのは露西亜と日本と……英吉利文化の中……」
英吉利文化……私はジュリアスの優雅な仕草をふと思い浮かべた。あれほどまでに窮屈だったしきたりの一つ一つが何故か、かけがえのないものに思う。
「なんだ、ぜんぜん純血上海人じゃないんだね。そのわりにアンタ、セコイねっ」
「それはお前と一緒だろう……」
私がそう言うとオリヴィエは笑いながらドアを蹴飛ばして帰って行った。
私は誰もいなくなった宵闇亭で、瓶の底から残りの粉をかき集め自分の為に珈琲を入れた。あの頭の硬い英吉利人がどんな顔をしてこの珈琲を飲むのかと思うと「……固執していたのは私の方か……」
と笑いが漏れ、肩の力が抜けてゆくのを感じた。
終
注釈
工部局 租界内を維持管理する為に設けられた組織。総務や財務部門の他に警察部があった。
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