1927.8.31 Wednesday
 水夢骨董堂

「オスカー、来ないね。月末だし、今日は来るかと思ったんだけど」
 昨日、リュミエールから話を聞いたオリヴィエは、オスカーが借金取りから逃げているのでは? と思った。依頼者からの支払いは月末にあることが多いオスカーは、二十五日の支払日をのらりくらりと 逃げ回って月末まで引き延ばすことがたまにある。
「いかにも遊技場の手下っぽい男でしたから」
「だとしたら、やっぱり、午前中には依頼料が入って、支払いも終えて、自由の身になってるかも。昼から顔を表すんぢゃない? いやー、まいったぜ、まったく……なんて言いながら」
 もう少し待ってみよう……ということになったのだが、昼を過ぎてもオスカーがやって来る気配はなかった。
「ねえ、宵闇亭に行ってみようか? マスターなら何か知っているかも知れないから」
 福州路にある宵闇亭には、オスカーは仕事の合間に立ち寄ることが多く、客との打ち合わせに利用することもある。
「そうですね。このまま心配しているより、マスターにお聞きして、何の手掛かりも無かったら蓬莱国賓館まで足を伸ばして、ジュリアス様にお聞きしてみましょう」
 リュミエールは頷くと、【本日臨時休業】と書かれた木札を引き出しから取り出した。オリヴィエは、店の鍵を握りしめる。二人で、窓の戸締まりをした後、店を出た。南京路に向かって歩き出 そうとした時、前から黒塗りのセダンがやって来るのが見えた。二人は道の脇に寄って、その車が通りすぎるのを待ったが、セダンはオリヴィエとリュミエールの真横で停車 した。運転手は、ムッツリとした顔の人相の悪そうな男で、助手席の男は、スーツに茶色のサングラスを掛けた抜け目のなさそうな東洋人だ。そのサングラスの男の方が、すぐに外に飛び出して来た。
「水夢骨董堂の方でいらっしゃいますね? 私は緑氏の配下の者です。緑氏が火急の用にて、ぜひお二人に事務所までお越し戴くようにと。ご友人のオスカーさんの件で……」
 卒のない態度でそう言うと彼は、セダンの後部扉をサッと開いて頭を下げた。だが、オリヴィエは乗ろうとはせず、「何の用か知らないけど、随分勿体ぶってるよね? そっちから来ればいいだろ? 呼びつけるなんて」と怒りの籠もった声で言った。緑……カティスの事になるとオリヴィエは、ガードが堅くなった上に、頭に血が上る。
「オリヴィエ、落ち着いて下さい。車まで寄こして下さっているんですから。何か人目を憚るようなお話しかもしれません。オスカーの事は……」
 リュミエールは、そこで少し躊躇い、「何かの事件に巻き込まれたかも知れないんですから……」と呟いた。
「ごめん……つい」
「いいんです。さあ、行きましょう」
 リュミエールは先に後部座席に乗り込み、オリヴィエも後に続く。上品なベージュの革製の座席は、ほど良いクッションが効いている。いつものオリヴィエなら、その感触を十分に楽しみ、居眠りのひとつもしようという所だが、さすがに顔も体も強張ったままだ。
 車は、幾つかの角を曲がり四馬路に入る。そして、緑の経営する紳士倶楽部・美楽園の前で止まった。表向きは上品な紳士の為のサロンであるが、二階は気に入ったボーイとともに遊べる小部屋が作ってある。カティスは、養父から相続したこの美楽園を足掛かりに、今の財を築き上げたと言っても過言ではない。
「なんでここなのさ? 事務所って言ったのに?」
 緑グループは、南京路に面した一等地にビルを持っている。その最上階がカティスが経営するもの全部を統括する事務所になっているはずだった。彼の社長室も当然、そこにある。
「本社の事務所とは申しておりませんので」
 サングラスの男に、そう言われて、オリヴィエは、またカチンと来たが、リュミエールが何も言うなとばかりに首を振る。オリヴィエは仕方なく、車から降り、店内へと入った。
 時刻は、午前十一時になろうとしていた。夜の帳が降りるまでは、ここは眠ったままの世界だった。シン……と静まりかえった店内には、まだ掃除夫の姿さえも見えない。
「二階の奥、突き当たりが、事務室になります。どうぞ」
「案内はいい。知ってるから」
 オリヴィエは、不機嫌なまま、サングラス男の案内を無視するかのように、先に階段を登っていく。
「あの方に八つ当たりしても仕方ないですよ。……ね?」
 オリヴィエの後に続いたリュミエールは、階下でこちらを見上げているサングラスの男に聞こえないように小声で言った。
「……そうだね。オスカーの事が気になって余裕なくて……」
 ふう……と息を吐いてそう言ったオリヴィエの背中に、リュミエールはそっと手を置くと、トントンと叩いた。
 リュミエールは、緑氏ことカティスとオリヴィエの間に、昔あったことを知っている。カティスが、今尚、オリヴィエに固執していることも。だが、リュミエールから見ればそれは、決して陰湿に追い回しているのではなく、弟をからかって楽しんでいる兄のように見える。オリヴィエの方が、過剰に意識しているのではないか?と、以前に何気なく言った 時、オリヴィエは「判ってるよ」と呟き、「それでも、ガードしとかないと隙あらば……と思ってるんだもの。別に大っ嫌いってわけじゃないんだけど、そういう関係になってもいいほど愛してないもん」とシビアな声で言った後、「第一、ワタシはソッチの趣味はないしね」 、と、いつもの笑顔で答えたのだった。
 

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